神様への祈り(2019・9・5)
私たちがお祈りをする時、「こんな事は願ってはいけないだろうか?」とか、
「あまりずうずうしく何でも願い求めるのは失礼ではないか?」とか、
「どんな願いをするのが正しいのだろうか?」などと考えてしまいます。
これらすべて私たちのこの世のものさしです。
神様は『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見い出すであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。』と仰っています。
神様は私たちが考えるより、人知をはるかに越えた考えで私たちのことを思ってくださる方です。私たちが祈り求める前から私たちの悩みや祈りをご存知の方です。
私たち人間の狭いこの世のものさしで勝手な判断をする方が高ぶることだと思いました。
この続きで、『自分の子に「魚が欲しい」言われて、ヘビを与えるだろうか?
卵を求める子にさそりを与えるだろうか?』とたとえられてます。
そして人の親でも自分の子には悪いものを与えず良いものを贈ることを知っているだろうと言われ、『天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか。』と言われてます。
神様は私たちが思っているどうしようもない思いの祈りや、恥ずべき祈りをせず、
建て前ばかりの祈りや遠慮する祈りを求めているのではありません。
感謝を捧げたい時は感謝を捧げる祈りをし、賛美したい時は賛美する祈りをし、赦してほしい時は許しを請う祈りをし、お願いしたい時は願い求める祈りをし、いつも神様を身近に思い頼ってほしいと望んでおられる方です。
どうぞ、ご自分のものさしではなく、神様に遠慮せず、祈り求めてください。
神様は御心にかなう願いなら(私たちに必要なことならば、)叶えてくださいます。
平安と喜びと共に。
(ルカによる福音書11:9-13)
なぐさめる人(2019・9・4)
『神はいかなる患難の中にいる時でも、私たちをなぐさめてくださり、』と書いてあります。
私たちが苦しみの中で悩み生きている時、神様は私たちをそばでずっとなぐさめてくださっています。それを感じようと感じなかろうと関係なく、神様はそうなさってくださっています。なぜなら、神様にとって私たちが特別な存在だからです。
『また、私たち自身も神になぐさめて頂くそのなぐさめをもって、あらゆる患難の中にある人々をなぐさめることが出来るようにしてくださるのである。』と続いてます。
私たちは悩み苦しんでいる人をなぐさめることが出来ます。
それは、私たちが神様の御心によってなぐさめられた、そのなぐさめが私たちにも備わったためです。
悲しみや苦しみで涙している人がいたら、神様から頂いたなぐさめをもって私たちもその人たちによりそいましょう、と言われてます。
誰もひとりぼっちではありません。
けれど、それを知らない人はひとりぼっちを感じているのかもしれません。
それは救いが一切ないような世界にいるようなものなのかもしれません。
人は誰でも救われます。
誰でも神様のなぐさめを受け取ることができます。
そのなぐさめを持って、私もなぐさめられる人になれたら、と思いました。
(コリント人への第2の手紙1:3-4)
私たちの願望(2019・9・3)
神様に自分の願いを叶えてもらうためお祈りをしますが、その願望が神様から与えられているものと自分から出た願望とがあります。
神様が私たちを通して願望を私たちにお与えになったもの、
それは神様の御心からお与えになったものです。
その願望には平安があります。
そして喜びがあります。
その願望は愛に根差したものであり、神様の栄光を表すものであると言われてます。
自分の欲から出る願望には、不安があり、平安も喜びもありません。
そしてそれらは自分の栄光を表すものだと言われてます。
病気の友達の快復のために祈る祈りには自分の栄光はありません。
それを叶えてくださる神様の栄光があります。喜びも平安もあります。
けれど、その友達に偽りの物を与えて「これで病気は治るよ」と言って、
神様に願い求める願いには、自分の栄光のためであり、叶わなければ恥をかく不安が生まれます。
何かの願望を祈りで求める時、その願望は誰の栄光のためになるのかを考えて、
もし自分の栄光のためならば、その願望は叶っても喜びなく、平安のない、不安なものになると思ってください。
そしてその願望が、神様の栄光のためならば、喜びと平安を感じてください。
神様のご計画(2019・9・2)
神様は私たちひとりひとりに神様のご計画を持っておられます。
あなたがあなたであるのは、あなたが神様の祝福を完全に得るために神様があたなをお造りになったからです。
そしてあなたが神様の栄光を表すためです。
けれどこの世に生きていると、それが神様のご意志によるものなのか見極めることは難しく感じてしまいます。
特に苦しみの中で生きていると、「なんでこんな思いをしなきゃいけないの?」とつい思ってしまいます。
主は言われる。わたしがあなたがたに対して抱いている計画は、
わたしが知っている。
それは災いを与えようというものではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
(エレミヤ29:19)
もしも今、辛い思いをされていても、神様は決してあなたに災いを与えているのではなく、その辛さによって成長し、義の道(正しい道)に導こうとしています。
いつも神様はあなたを導いてくださってます。
決してその辛さをひとりで乗り越えさせようとは思っておりません。
いつも傍らには神様がいてくださってます。そして道も与えてくださってます。
あなたの将来を、希望を、あなた自身を、祝福するためにあなたをお造りになったのだから。
もし辛くてそれが神様のご計画だと感じないならば、祈りによって神様に伺ってみてください。きっと平安と共に答えてくださると思います。
その時必要なことは、「神様の存在を信じる」ことです。
種のゆくえ(2019・9・1)
ある時神様は、私たちが御言葉をどのように扱っているかを、”種を蒔いた行く末のたとえ”で教えてくださいました。
ある種は、『道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。』
ある種は、『土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないのですぐ芽を出したが、日が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。』
ある種は、『いばらの中に落ちた。するといばらが伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。』
ある種は、『良い地に落ちた。そして生えて育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。』
このたとえは、神様の御言葉を聞いた私たちの心を表してます。
『種まきは御言葉を蒔くのである。』としっかり言われてます。
道端に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐにサタン(悪魔)が来て、彼らの中に蒔かれた御言葉を奪って行くのである』
御言葉を聞いても、「うそだ~」とか「そんな訳ない」と言って心に留めず流れてしまうことです。
石に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち御言葉のために困難や迫害が起こってくると、すぐにつまずいてしまう。』
いばらの中に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くが、世の心使いと富の惑わしと、色々な欲とが入ってきて、御言葉をふさぐので実を結ばなくなる。』
この世の誘惑や肉の欲などに負けて、御言葉を聞いても実らないことです。
良い地に蒔かれた種とは、『御言葉を受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのである。』
ひとつの御言葉からたくさんの心を救い、人を救うようになることです。
そして言われてます『聞く耳のあるものは聞くがよい』
私はどの種まきをしているのだろう。
良い地で種まきが出来ているのだろうか?
きちんと芽が出て育っているのだろうか?
それを知るのはまだ先になるのだろう。
だからいつでも御言葉を聞き逃さず、流さず、細胞すべてにいきわたるまで心に沁みこませて生きていきたいです。
(マルコによる福音書4章より)
「あってないもの」と「あってあるもの」(2019・8・31)
ある人が仰っていました。「人はあってないものだ。」と。
今私たちはココに存在していますが、私たちは何かに依存しなくては生きていけません。
水がないと生きていけません。食べ物がないと生きていけません。空気がないと生きていけません。
神様は「あってあるもの」とハッキリ仰ってます。
何かに依存しないと存在出来ない方ではありません。
そのような方に、私たちの多くは「神様なんて信用してない」とか、「神様ではなく、自分自身を最も信用しよう」と言って、神様から離れた人生観で生きようとしてます。
それらを『罪』と教えられました。
犯罪を犯したり、法を犯すことも罪ですが、聖書では元々の『罪』は神様から離れる行為だと教えてもらいました。
離れてしまったために、自分ひとりの力で生きていると錯覚を起こしたり、「神様なんていらない」と思い、身勝手な思想に走ってしまったりします。
生きる意味も分からず、何のために生まれ死んでいくのかも分からないまま、
ひとときの幸せのために生きているように思います。
「今だけ、今この瞬間だけ、安らぎをください」と願い、ひとときの安らぎの中で眠り、目が覚めるとまた解決できない矛盾の世界で傷を作りながら生きていくように思います。
「何のために?」「なぜそこまでして生きなきゃいけないの?」
これらの迷いは神様から離れている人の迷いです。
迷走は辛いです。
真っ暗の中でさまよっているようです。
けれど光を見つけると、道が見えてきます。
「何のために生まれたの?」の答えも見えてきます。
神様は『光』です。
私たちが道に迷わないように進めるよう照らしてくださる光です。
光を見失わず、いつも光の方に顔を向け歩めるように生きたい。
皆がこの光を見失わないで生きていけることを心から願います。
貧しい人は幸いである(2019・8・30)
『貧しい人は幸いである』という神様の御言葉があります。
『貧しい人』とは内側が貧しい人、外側が貧しい人と言う意味です。
内側の貧しさには、いじめられたり、しいたげられたり、ののしられたり、バカにされたり、又は自分のやっていることが誰からも評価されず、罵倒されたり、自分の行いすべてが裏目に出てしまって相手を怒らせ落ち込んでしまったりと、あらゆる悲しみ苦しみの中で生きている人たちのことです。
そのような方々を神様は『幸い』と仰っています。
なぜなら、神様はそんな人たちをお救いになるためにおられるからです。
決して行いよく、振る舞いよく、お金に困らずに生きている人を『幸い』とは仰ってません。
私たちがこの世で感じる「幸せ」と神様がお考えの「幸せ」には少し違いがある時があります。
生きていれば理不尽なことや、憤りを感じる出来事に出くわすことも多いです。
自分の心が未熟でひ弱なために、心に傷をいっぱい作って生きているかもしれません。
自分を「バカだなぁ」と心底情けなく思い、落ち込む時もあります。
けれど、そんな時そんな自分を『幸いです』と言って祝福してくださる方の存在を忘れてはいけません。
そうすればきっと希望ある道を与えてくださるからです。
自分が『貧しい人』になった時、それは神様に祝福される時であること、
それをしっかり理解したいです。