神様大好き!みーのこころブログ♪

自己愛性人格障害の父とそれに従う母に育てられ、ウツとパニック症を患い生きづらかった私。そんな私に神様が手を差し伸べてくださった☆神様から愛と光をたくさん頂いて人生必死に生きてます。神様が教えてくださった事や人やメッセージを綴っていきます♪

見えない神様

神様は現実に私たちの目に見ることができず、

私たちの手に触れることができません。

だから、「神様はそこに存在してます。」と言われても、

なかなか受け入れることができない人も多いです。

 

そのため、「私はこの程度の人間だ」と自分自身を自分の中で決めてしまったり、

諦めたりしてしまうことも、よくあります。

 

過去の失敗をいつまでも悔やみ、その中で生き続ける人、

未来の不安ばかり考えて、自らの未来を黒く塗りつぶす人、

「私みたいな人間は、神様から愛を受け取る資格ありません」と言って、

神様を自ら拒む人、

自分で自分を「つまらない人間だ」「どうしようもない人間だ」と、

誤った裁きをやめない人、

その不安定な心を周りのせいにして、他人さんを裁き、縛りつける人、

 

人は弱くて、利己的で、不完全だから、

誤った考えに心まで支配されてしまいがちです。

 

あなたがどんな人なのか、

あなたが何をしたか、

あなたが何をしなかったか、

それらすべてを裁くことができるのは、あなた自身ではありません。

それらすべてを裁くことができるのは、神様だけだと仰ってます。

 

そして『あなたが何をしたか、何をしなかったかに関係なく、

私はあなたを愛している』と仰ってます。

 

神様が現実に見えず、触れることが出来ず、信じる力が弱くても、

同じように愛してくださってるのが、神様です。

 

現実の目で見えなくても、触れることが出来なくても、

心の目で見て、神様の優しさに触れることが出来ると信じてます。

 

心の目で見て感じて神様に触れてください。

 

わたしは主である。わたしのほかに神はない。ひとりもない。

あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。

イザヤ書45:5)

 

神様との隔たり

BC(紀元前)530~BC510頃、バビロンで奴隷となっていた(バビロン捕囚)イスラエル人は、やっと解放されて自分たちの地、ユダの地に帰ってきました。

みんな頑張って町を修復していたけれど、なかなか上手く修復がいかず、人々に不満がたまっていました。

その不満はやがて神様に向けられるようになりました。

「こんなはずじゃなかった。」

 

そんな時、イザヤという預言者がこんな言葉を残してます。

見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞えないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て あなたがたの罪が御顔を隠し聞えないようにしている。(イザヤ書59:1-2)

 

私たちも神様に救いを求め祈りが聞かれることを待ち望んでいるのに、いっこうに聞かれない。「こんなはずじゃなかった。」と思う時があると思います。

そう牧師先生は仰っておられました。

 

イザヤは人々の呟きをきっぱり否定し、彼ら自身が問題なんだと言っているのです。

「あなたがたの過ちが」「あなたがたの罪が」神様との間を隔ててしまっていると言っています。

罪とはヘブライ語で「的をはずす」との意味でもあります。

神様という的から外れることです。

 

私たちの背きの罪はあなたの前に多く 私たちの罪が不利な証言をする。

私たちの背きの罪は私たちと共にあり 自らの過ちを、私は知っている。(イザヤ59:12) 

 これは『神様』という的を外し、神に背を向け罪を重ねる証言をする人々のために、イザヤは代表で神様に罪を告白した祈りを捧げたのです。

 

そのあとのこともイザヤは語ってます。

あがない主がシオンに来る。ヤコブのうちで背きの罪から立ち返る者のもとに来る。(イザヤ59:20)

 (シオン、ヤコブとはイスラエル人のこと)

神様は自分たちの罪を告白し、悔いる者の所に必ず来てくださると言っています。

 

自分の環境や状況が悪いのは神様が自分に気づいてくださらなく、手を差し伸べてくださらないからではないか、と思い、そして自ら手を出さず、耳を傾けず、神様に背中を向けているのかもしれません。

 

イザヤはきちんと自分たちの罪を告白し、悔い改めをするならば、神様の方から近づいてくださるんだと教え残しています。

 

牧師先生はこのようにイザヤの言葉を教えてくださいました。

 

自分の誤った考えや自分の時間軸で勝手に神様との間に壁を作らないように、

そしてそれに気づいたならば、いつでも神様に謝り、神様との間の壁をなくせる人になれるように、どうか私を造りかえてください。

そう祈りたいです。

善いサマリア人のたとえ

先日、『善いサマリア人』という聖書のお話を習いました。

 

ある律法の専門家たちがイエスを試すために質問をした。

「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

エスは言われた「律法には何と書いてありますか。」

彼らは答えた「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。』

聖書の中心的な答えを言った。

そう答えた彼らに、イエスはそれを実行するように言われた。

しかし、彼らは自分の立場を正当化しようとして、さらに質問を続けた。

「隣人とは誰のことですか。」

そこでイエスは例え話をされた。

ある人がエルサレムからエリコという町に下る途中(盗賊が出る物騒な道)で、追い剥ぎに遭い瀕死の状態にされた。

ある祭司がその人を見つけると助けることなく、反対側の道を通った。

同じようにレビ人も彼らを見るなり反対側を通った。

そこにサマリア人(混血の人が多いため、差別を受けていた人)が通りかかり、彼を気の毒に思い、介抱して家畜に乗せて宿屋に連れて行き、銀貨2枚を置いて宿屋の主人に言った。「この人を介抱してください。費用が足りないなら明日の帰りがけに持ってきます。」

そんな例え話をされたあと、イエスは彼らに質問した。

「3人の中で誰が追い剥ぎにあった人の隣人ですか。」

彼らは答えた「その憐れみをかけた人です」

そしてイエスは言われた「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

『行って、あなたも同じようにしなさい。』

 

自分の権威を振りかざし、威厳を保つため自分を正当化して生きては、神の国には入れません。

あなたもこのサマリア人のように、倒れて弱っている人を憐れみを持って助けてあげて、その人の隣人となるような生き方をしなさい。

そしてあなたも神の国に入りなさい。(救われなさい)

そうイエス様は諭されました。

 

最後に牧師先生は仰っておられました。

「時を経て彼らの心にしっかりと沁み入ったに違いないと思われます。」

 

私は祭司たちのように、見て見ぬふりをしないだろうか?

このサマリア人のように手を差し伸べられる人になれるだろうか?

 

どうか、そのような人になれるよう私を造り変えてください。

そう祈りたいです。

お祈りします

親愛なる父なる神様

 

今日も私を生かしてくださり、ありがとうございます。

 

私に何でも見える目を与えてくださり、ありがとうございます。

私にいい香りをかげる鼻を与えてくださり、ありがとうございます。

私に美味しいものを食べれる口を与えてくださり、ありがとうございます。

私に教えを聞ける耳を与えてくださり、ありがとうございます。

私にどこにでも行ける足を与えてくださり、ありがとうございます。

私に何でもつかめる手を与えてくださり、ありがとうございます。

私にあなたの知恵を考える頭を与えてくださり、ありがとうございます。

私にあなたのことを思う心を与えてくださり、ありがとうございます。

 

今日、雨風をしのげ休む場所を与えてくださり、ありがとうございます。

今日、飢えることなく食べれる食べ物を与えてくださり、ありがとうございます。

今日、寒さをしのげる洋服を与えてくださり、ありがとうございます。

 

私はこんなにも与えてもらっているのに、「もっともっと足りません。どうか私を癒してください。励ましてください。救ってください。」と願ってばかりいます。

その愚かで罪深い私を、それでも愛してくださる憐れみ深い神様に心から感謝します。

 

このお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げします。アーメン

恐れてはいけない

聖書の中に『恐れてはいけない』との表現が144回もあるそうです。

その意味は、ヘブライ語ギリシャ語で『逃げてはいけない』の表現らしいです。

これは物理的な所から「逃げてはいけない」というより、自分の心から「逃げてはいけない」といった意味だそうです。

「逃げずに神様のもとに来なさい」という意味です。

 

「恐れ」は自分の弱い魂(感情)に従い、不安や恐怖心に支配されてしまうことなんだと思います。

そうではなく、自分の霊(内なる神様)に従いなさい。とのことなんだと思います。

 

いつでも私たちは神様の内にいて、神様が私たちの内にいてくださることを忘れないでいることが、「恐れ」から解放される道を見つける方法だと教えてくださっています。

 

恐れてはいけません。わたしはあなたと共にいる。(イザヤ書41:10)

 

神様の嘆き

先日の礼拝で牧師先生がお話くださった聖書の学びです。

 

エス様と三人の弟子たちが山から降りてくると、1人の男が叫んだ。

「先生どうか息子を見てやってください。」

霊が息子に取りつて痙攣させ、泡を吹かせ、なかなか離れません。他の弟子に霊を追い出すように頼んだけれど、出来ませんでした。 

エスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなた方と共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの息子をここに連れてきなさい。」

 この『ゆがんだ』とは、ギリシャ語の聖書によると「まがった、腐敗した、堕落した、」との意味もあり、ここの表現がギリシャ独特の表現方法で、『第3者によって~』の表現とのことです。

ですので、『第3者によってゆがんだ時代』と言えるそうです。(ここでの第3者はサタンを表しています)

 

そんな第3者(サタン)によって信仰心が薄れ、不確かな信仰心になったゆがんだ時代にイエス様は嘆かれた。とのことです。

 

からし種ひと粒ほどの信仰でもいいのに、それすらない。(マタイ17:20)

 

そして牧師先生は話されました。

「私たちの信仰も、いつのまにか薄くなり、堕落してしまいます。それをイエス様は嘆かれています。嘆きながら、それでも私たちを助けてくださいます。

エス様が嘆かれていることを、私たちも覚えておかなければなりません。

私たちの小さな信仰がサタンによって曲げられることがないように、聖霊なる神様の御力が私たちに降ってくださいますように、包み込んでくださいますように、そう祈る必要があります。

そして神様ご自身が私たちをお守りくださることを祈り待つことです。」

そう教えてくださいました。

 

私も弱さゆえに感情の波が揺れて、神様を見失い、自分勝手な言い訳をし、醜い心になる時もあります。

けれど、そんな私に神様は嘆きながらでも私をお見捨てにならず、包んでくださり、救いの道を与えてくださっているんだと、忘れてはいけないと思いました。

そして諦めることなく、また立ち返ることを繰り返していかなければと思いました。

 

ルカによる福音書9:37-43)

4つのことをして5つの祝福を頂く

先日学んだお話です。

 

私たちは人から見えるところは気に掛けたりもしますが、心の内側はなかなか整えられないものです。

 

聖書の中で神様は、その内側の自分の弱いところや悪いところを神様の前で『のどをからして叫べ』大きな声で罪をあきらかにしなさい。と言われているところがあります。

 

そして悔い改めをして4つのことをしなさい。と語っておられます。

 

『飢えた人にパンを分け与え、家がなく苦しむ人々を家に招くこと、裸の人を見れば服を着せ』

貧しい人を助けて施しをしなさい。と言われてます。

 

『くびきを負わせること指をさすこと悪事を語ることを取り去る』

悪いことや言葉をしない言わない。(指をさすこととは、あざけったりののしったりすること)

 

『飢えている人に心を配り苦しむ者の願いを満たす』

隣人愛に生きなさい。

 

『私の聖なる日に自分の楽しみを控える』

主の聖なる日を大切にすること。

 

それらを守るなら、神様による5つの祝福が与えられると仰ってます。

 

『闇の中にあなたの光が昇りあなたの暗闇は真昼のようになる』

あなたに神様の光が輝き出す。

 

『主は常にあなたを導く』

正しい道にあなたを導いてくださる。

 

『干上がった地でもあなたの渇きを癒し』

水が尽きてあなたが渇きを覚えたとしてもあなたを癒す

 

『骨を強くされる』

この「骨」とはヘブライ語で「力」との意味もあり、「力を強くされる」とも言え、

また、体の中心である骨に力を与えることにより、「中心から力を与える」との意味もあります。

 

『潤された園のように水のかれない水源のようになる』

あなた自身が焼け付く地にいる人々の命の水となり、命の泉となる。

 

外側の形だけ整えるのではなく、内側もご存知の神様の前で自分の弱さや悪いところの罪を悔い改め立ち返る努力をしなさいと仰っているのです。

そうすれば、神様は素晴らしい祝福を与えてくださると教えてくださっています。

 

イザヤ書58:1-14)