種のゆくえ(2019・9・1)
ある時神様は、私たちが御言葉をどのように扱っているかを、”種を蒔いた行く末のたとえ”で教えてくださいました。
ある種は、『道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。』
ある種は、『土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないのですぐ芽を出したが、日が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。』
ある種は、『いばらの中に落ちた。するといばらが伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。』
ある種は、『良い地に落ちた。そして生えて育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。』
このたとえは、神様の御言葉を聞いた私たちの心を表してます。
『種まきは御言葉を蒔くのである。』としっかり言われてます。
道端に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐにサタン(悪魔)が来て、彼らの中に蒔かれた御言葉を奪って行くのである』
御言葉を聞いても、「うそだ~」とか「そんな訳ない」と言って心に留めず流れてしまうことです。
石に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち御言葉のために困難や迫害が起こってくると、すぐにつまずいてしまう。』
いばらの中に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くが、世の心使いと富の惑わしと、色々な欲とが入ってきて、御言葉をふさぐので実を結ばなくなる。』
この世の誘惑や肉の欲などに負けて、御言葉を聞いても実らないことです。
良い地に蒔かれた種とは、『御言葉を受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのである。』
ひとつの御言葉からたくさんの心を救い、人を救うようになることです。
そして言われてます『聞く耳のあるものは聞くがよい』
私はどの種まきをしているのだろう。
良い地で種まきが出来ているのだろうか?
きちんと芽が出て育っているのだろうか?
それを知るのはまだ先になるのだろう。
だからいつでも御言葉を聞き逃さず、流さず、細胞すべてにいきわたるまで心に沁みこませて生きていきたいです。
(マルコによる福音書4章より)