神様との隔たり
BC(紀元前)530~BC510頃、バビロンで奴隷となっていた(バビロン捕囚)イスラエル人は、やっと解放されて自分たちの地、ユダの地に帰ってきました。
みんな頑張って町を修復していたけれど、なかなか上手く修復がいかず、人々に不満がたまっていました。
その不満はやがて神様に向けられるようになりました。
「こんなはずじゃなかった。」
そんな時、イザヤという預言者がこんな言葉を残してます。
見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞えないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て あなたがたの罪が御顔を隠し聞えないようにしている。(イザヤ書59:1-2)
私たちも神様に救いを求め祈りが聞かれることを待ち望んでいるのに、いっこうに聞かれない。「こんなはずじゃなかった。」と思う時があると思います。
そう牧師先生は仰っておられました。
イザヤは人々の呟きをきっぱり否定し、彼ら自身が問題なんだと言っているのです。
「あなたがたの過ちが」「あなたがたの罪が」神様との間を隔ててしまっていると言っています。
罪とはヘブライ語で「的をはずす」との意味でもあります。
神様という的から外れることです。
私たちの背きの罪はあなたの前に多く 私たちの罪が不利な証言をする。
私たちの背きの罪は私たちと共にあり 自らの過ちを、私は知っている。(イザヤ59:12)
これは『神様』という的を外し、神に背を向け罪を重ねる証言をする人々のために、イザヤは代表で神様に罪を告白した祈りを捧げたのです。
そのあとのこともイザヤは語ってます。
あがない主がシオンに来る。ヤコブのうちで背きの罪から立ち返る者のもとに来る。(イザヤ59:20)
神様は自分たちの罪を告白し、悔いる者の所に必ず来てくださると言っています。
自分の環境や状況が悪いのは神様が自分に気づいてくださらなく、手を差し伸べてくださらないからではないか、と思い、そして自ら手を出さず、耳を傾けず、神様に背中を向けているのかもしれません。
イザヤはきちんと自分たちの罪を告白し、悔い改めをするならば、神様の方から近づいてくださるんだと教え残しています。
牧師先生はこのようにイザヤの言葉を教えてくださいました。
自分の誤った考えや自分の時間軸で勝手に神様との間に壁を作らないように、
そしてそれに気づいたならば、いつでも神様に謝り、神様との間の壁をなくせる人になれるように、どうか私を造りかえてください。
そう祈りたいです。