富んでいる人は不幸である(2019・8・29)
聖書の中で神様は『富んでいる人は不幸である』と仰っているところがあります。
なぜ富んでいる人が不幸なのだろうか?
神様はこの世で富んでいる人、全てにおいて満腹である人などは、もうこの世の慰めを受けているので、神様に慰めてもらう隙間がないと仰ってます。
この慰めを『受けている』という言葉は、ギリシャ語で「アペクソー:離れている、放棄している」とも訳されるらしいです。
この場合、この世の富でいっぱいになってる人は、神様からの慰めから離れてしまっている放棄している、といった事にもなるそうです。
この世で成功して、それが神様に頼らず自分ひとりの力で成果を上げたと思う心に神様からの慰めが入るすきもなく、むしろ自ら離れて放棄していることになるのだと思います。そしてそのような人を『不幸である』と仰ったんだと思います。
この世で富んで、全てにおいて満腹している人でも、神様の存在を重んじて、
頭を下げ、へりくだる気持ちを持てる人は、神様に祝福されるのだろうと思います。
この富はどなたによる、どなたのための栄光なのか?
きっとこの世で成功されてる方はそのことをご存知だから、富が続いておられるのかもしれない。
(ルカによる福音書6:24)
私と言う供え物(2019・8・28)
『あなたのからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物にしなさい(ローマ12:1)』と言われてます。
これは何も自分の身体ごと実際にお供えしなさいと言っている意味ではなく、
「神様の思いに応えられる人になりなさい」との意味です。
続きには『あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって造り変えられ、何が神様の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ知るべきである。(ローマ12:2)』と言われてます。
神様に自分自身を捧げることとは、神様のお考えやお喜びになること何が善であるか、それらをどのようにしたら全うできるかを考え知ること、そして行いによって神様に捧げることです。
神様を信じて愛したから、神様に新しく造り変えて頂けたから、すべてが上手くいくとかではありません。
色んな試練も与えられ、喜びや平安も味わいながら、少しずつ色んな選択を間違わずに神様のお考えに応えられる人に成長していくもんだと思います。
いつも「神様のお望みは何か?」を考え生きることが私自身の供え物でなはいか?と思いました。
私は神様のお望みのように成長していけるだろうか?
そんな気持ちになりました。
神様の祈り(2019・8・27)
先日ある伝道者の方が仰っていました。
「神様は今、天で何をされているかご存知ですか?」
そしてその方が仰いました。
「神様は祈っているのです、あなたのために。」
「あなたの祝福のために、あなたが人生につまづかないように、
つまづいた時、私(神)に助けを求めてくれるように、そして私の言葉(福音)を理解できるように、と祈ってくださっています。」と仰いました。
私たちはいつも自分のことや、ごく近い周りの人のことしか考えてない事が多いです。
私たちが何も気づかない時ですら、神様は私たちのために、祝福し、祈っていてくださったんです。
上手くいかないことを「なぜ神様は私にこんな辛い目に遭わすのだろう?」と神様を責めていた時でさえ、『私に気づいて救われるように』と祈ってくださっていたんですね。
私たちは何も気づきもしないで、勝手に「もうダメだ」と諦めていた時も、神様だけは諦めずに私たちを信頼して『こちらに目を向けるように』と祈ってくださっていたんですね。
願いが叶わないのは、神様のせいなんかじゃないんです。
私たちが見ようともせず、感じようともせず、一方的に神様のせいにしていただけだったんです。
こんな罪深い私たちを神様は命を持って赦してくださったんです。
私はこのことを教えてもらって、また自分の愚かさを知り、
また神様の愛を知りました。
恐れてはいけない、恐れなさい(2019・8・26)
神様はいつも私たちに『恐れることはありません』と仰っています。
それでも私たちは何度も何度も恐れてしまいます。
目の前で奇跡を見せてもらっても、
「もうダメ・・。」って所で神様の恩恵を受けても、
苦しさの中に平和な心を宿してもらっても、何か困難があるたびに恐れてしまいます。
そんな私たちに根気強くお見捨てにならず、いつもずっと見守り続けておられます。
また、私たちが恐れなくてはいけないのは神様だけだと仰っています。
それは一見、暴君と捉えられる言葉ですが、神様は『愛』です。『愛』そのものです。
ならば、その『愛』を見失う人生はとても恐ろしいことです。
光のない状態になります。
神様は『この世のものに恐れるな』そして『神様を恐れなさい』と仰っています。
神様を見失い高ぶる心のまま過ごし、この世のものを恐れて生きることは、上手く人生がまわっている時は気づきにくいですが、上手くまわらなくなった時、それは足場なく崩れてしまうのだろうと思います。
たとえ何かで救われたとしても、それは一時の救いであって、また同じところで落ちてしまうのだろうと思います。
何を恐れ、なぜ恐れてはいけないのか、そしてなぜ恐れなくてはいけないのか、
神様の御言葉の意味をゆっくりじっくり理解したいです。
神様の御技(2019・8・24)
聖書の福音書の中のお話です。
イエス様と弟子達が歩いていた時、1人の盲人がいました。
弟子達がイエス様に尋ねました。「この人が生まれつき盲人なのは誰が罪を犯したためですか?本人ですか?両親ですか?」
これは、この盲人が見えなくなった原因は盲人の過去の行いのせいですか?それとも両親の行いのせいですか?と聞かれてることです。
過去何か過ちを犯したからそのせいで罪を負っているのですか?とのことです。
それに対してイエス様は「本人が罪を犯したのでもなく、両親が罪を犯したのでもなく、ただ神の御技が彼の上に現れるためである」と言われました。
これは、誰かのせいや、過去のせいではなく、盲目になることで神様の御技を頂けたのだとのことです。
過去や誰かのせいで罪を負っているならば、人は前に進むことは困難です。
なぜなら、何かのせいにしていても何も変わることは出来ないのだから。
そうではなく、辛い時、弱い時こそ、神様はその人にそれを乗り越える神の御技をお与えになっていると仰っています。そしてその辛さもひとりではなく、神様と共に歩む道となるのだと仰ってます。
辛く悲しいことが起きたとしても、それは過去や誰かのせいだと考えて、過去やその人に縛られるのではなく、その瞬間から神様の御技を頂けるのだと考えれば、辛さの中にいても、神様の恩恵が私たちを救ってくださると思います。
そしてその救いによって、前に進む希望も持つことが出来ると思います。
その進む道ですら神様の恩恵の道だと思います。
その後、イエス様は御技によって盲人の目を見えるようにしました。
しかし主は言われた「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。
(第2コリント12:9)
今も届いている御言葉(2019・8・23)
私が神様を信じ愛するようになってから、神様の愛を色んな方から教えて頂いたり、聞いたり読んだりして、神様の輪郭が見えてきたように思います。
神様と言う輪郭が薄ぼんやりとしか分からなかった時、それでも生きることが辛くてこの辛さから抜け出したくて、薄ぼんやりしか分からない存在の方にすがるように祈っていました。
結局私は昔から自分の中でご縁があった聖書によって、神様の深い愛を学び、神様の輪郭をはっきり知ることができました。
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものをあなた方にも告げ知らせる。
それは、あなた方もわたしの交わりにあずかるようになるためである。
わたしの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
これを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるためである。
ヨハネさんがイエス様のおそばで見てきた聞いてきたものを私たちに伝えるのは、私たちが神様との交わりの中で喜びに満ち溢れるためだと仰ってます。
それが神様の望んでおられることだからです。
約2000年前に書かれたヨハネによる福音書ですが、今の私にまでその御言葉が届いてます。
神様の愛は今も続いております。