弱い時に現れる(2019・4・10)
不思議だなぁ、と思うことは、
神様は私が満たされているときより、苦しみの時の方が神様の存在を強く感じます。
『それが神様の方法だからです。』と書いてある文章を見つけた。
やっぱりそうか。
それなのに、なぜ今まで見えなかったんだろう?
感じなかったんだろう?
「やっぱり神様なんていない」と何度思いそうになったんだろう。
自分が見ようとしていなかっただけだったんだな。
感じようとしていなかっただけだったんだな。
神様はいつでも「求めなさい」と仰っていたし、「委ねなさい」と仰っていた。
今なら分かる。
正直、今も辛い時はたくさんある。
けれど、今はひとりで歩んでる気持ちじゃないから、
そんな中でも温かさや、優しさを感じて、悲しみではない涙を流すことも多い。
こんな苦しみの中でも満たされた心を与えてくださる瞬間がある。
笑顔を作ろうと思える。
涙が出るほど、ありがたい。
状況は昔と変わってないのにね。
あの時よりも私自身が幸せを感じようと思える心がしっかりある。
私を大切に育ててくださってる神様のためにも、
私自身を大切にしようと強く思う。
しかし主は「私の恵みは、あなたに十分である。
というのは、私の力は弱さの内に完全に現れるからである」と言われた。
(第2コリント12:9)
神様の優しさ(2019・4・9)
私に苦しみの黒い塊がやって来たとき、救いの手が欲しくて、
神様に願い求め、祈り求めていると、
神様はいつも私に小さな幸せをたくさん見せてくださり、温かなメッセージを与えてくださる。それはそれは優しく、温かく。
エンジェルナンバーで知らせてくれたり、精霊を使わされてのメッセージだったり、
空や風やお花でも。お友達や大好きな人からも。
あまりにさりげなく細やかなものなので、見逃してしまいそうになる、小さな幸せ。
「ああ、おそばにいてくださってるんだな、見守ってくださってるんだな」
そんな気持ちにさせてくださる。
だから、ひとりで苦しみに耐えているんじゃない気持ちが湧いてくる。
「今をしっかりしなきゃ!」って気持ちにさせてくれる。
神様はいつでも私の幸せを願ってくださり、与えてくださっている。
だから私は何度でも立ち上がれるの。
あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
(詩編55:23)
お釈迦様の誕生日(2019・4・8)
今日はお釈迦様のお誕生日、花祭り。
お釈迦様がルンビニーという花園で産まれたところから、
「花祭り」と呼んでお祝いする日になったらしいです。
そしてその名を「シッダルダ太子」とされました。
この太子は産まれてすぐに東西南北に7歩ずつ歩いて、
右手で天を、左手で大地を指して
「天上天下唯我独尊」「三界皆苦吾当安此」と宣言されました。
これは、「ただ我々人間にのみ、なしうる、
たったひとつの尊い目的(独尊)がある」と言う意味とのこと。
人の命に差別はなく、みんな平等に尊いということ。
そして「三界(浴界・色界・無色界)にいながら、
誰もが本当の幸せになれるよ」との意味だそうです。
『ありがとう』と言う言葉
「他人さんから施しをしてもらうことは、めったにない有り難いことです」
という意味から転じて「ありがとう」の感謝の言葉となったそうです。
仏法は「天上天下、この広い大きな宇宙で今、私が生まれてきたのは、
この幸せになるためであった」と心から喜べる人生が開かれるのですよ、
光の玉(2019・4・7)
今私の心に丸い玉が見えます。
ここの所、ずっと。
不思議と毎回ではなく、ほんの時々現れます。
その玉は金白色のようなものです。
これが自分の魂の色なのかは分かりませんが、
苦しい試練を与えてもらっていても、その玉が光っていたら大丈夫な気がします。
「大丈夫、負けない!」と思ってみたり、悲しくても笑ってみたりすると、
少し大きくなって光り輝きます。
「私は一体どうなったの?」と思うんですが、
これが自分の内から来るものなのか、覚醒からくるものなのか、
ただの妄想の勘違いなのかは分かりません。
ただ、私にとって、くじけず、強く保ってくださるための大切なものだと言うことだけは分かります。
本当に神様は不思議な感覚を私にいつも体験させてくださるな~。
この光の玉をご存知な方おられますか?
苦しみの波(2019・4・6)
時々やってくる苦しみの波。そんな時の私です。
辛いこと、苦しいことが自分の意志に反するようにやって来たりする。
心が閉ざされていくのが自分でも分かる。
深呼吸して、落ち着かそうと思ってみても、いつもの不安に飲み込まれそうになったりする。
そんな時に神様を感じるように、少しでも正気を取り戻せるように、
ただただ祈り求めて、神様を探し求めている時がある。
神様の優しい御言葉に何度涙をながしたことだろう。
すべては私に必要だから与えられた。
そう仰る神様の御言葉が辛く苦しく感じてしまう。
そして「私は何て弱いんだろう」と思ってしまう。
神様から離れたくない、見失いたくない、
だから祈り続ける。
必ずまた繋がるから。
見えなくしてるのは自分自身だから。
そう思う自分の心を信じて祈る。
辛くて苦しいだけの時にはあきらかに無かった光が、希望が、愛が、
今の私にはある。
与えてもらってるのがわかる。
もう一度、深呼吸をして、今何が一番必要かを考える。
神様が愛してくださる私自身を愛すること。
あるがままに愛すること。
神様からの愛と自分自身の愛で満たされた心は、
こんなにも私を強く輝かせてくれている。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
試練を耐え忍ぶ者は幸いである。
それを忍び通したなら、神を愛する者たちに約束された命の冠を受けるであろう。
(ヤコブの手紙1:12)
優しさって?(2019・4・5)
私の今年の手帳に今年大切にしたいことを書いてます。
神様を日々感じること
ありがたさを感じること
幸せに思うこと
豊かに思うこと
優しさを学び覚えること
それらを大切に生きること
最近、この中の『優しさを学び覚えること』
これが難しくて悩んでます。
神様は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい(マタイ22:24-40)』
と仰ってます。
隣人(他人さん)に優しくするには、自分に優しくならなくてはいけないことを
教えてもらい、自分のことを愛することを学びました。
今では自分のことも大切に思えるようになりました。
そして次の段階の隣人(他人さん)を愛する(優しくする)こと、
この言葉、簡単なようで、とても奥深く難しいです。
私がいかに自分本位だったかを思い知らされます。
それに、これが優しさなのか、押し付けなのかも分からなくなる時があります。
大好きで尊敬している方がおられるのですが、
その方はいつも相手を思いやる言葉をはじめにお掛けになるんです。
その丁寧な接し方がとても素敵で、心地いい優しさに包まれるんです。
この方のようになりたいと思っているのですが、いつになるやら。
もう迷子です。
まだまだ「あっ!そうか!」には達しません。
奥深い課題です。
これから生きていく中で、『隣人を愛する』ことは、
私の永遠の学びになりそうです。
私のパニック障害(2019・4・4)
私はパニック障害を患ってます。
初めての発症は今から10年ほど前の映画館からです。
その日の瞬間をよく覚えてます。
本編が始まる前の予告篇でそれは起きました。
あの頃もひどいストレスを抱えていて、ほんの息抜きの気持ちでひとりで映画を見に行きました。
映画は大体2時間ほど。
飲み物とかお菓子とか買ってから入ろうと思ったのですが、色々持って入るのも煩わしいし、2時間ぐらい飲み物を飲まなくても平気と思って、何も買わずに入りました。
そして劇場が暗くなった時に、「ああ、もうトイレ行けなくなったな~。のどが渇いても飲めないな~」と思った瞬間、急に動悸がしてきました。
ドキドキドキドキ・・どうしよう。
思えば思うほど、動悸がひどくなる。
TVなどでタレントさんがパニック障害になった経験を語っていたのを見ていたので、
すぐに「これがパニック障害か」と気がつきました。
映画は始まりましたが、画面がほぼ観れません。真っ白になったり、星が飛んでたり、気持ち悪くて吐き気がしたり、冷や汗が出たり、意識がなくなりそうになったり、
初めての事で、どうしていいのかわからなかったです。
とりあえず、動く勇気がなかったので、目を閉じてじっとしておりました。
30分ほどしたら徐々に映画のストーリーが聞き取れるようになってきました。
それが初めてのパニック障害の体験でした。
それ以来、映画館や劇場、満員電車で立って乗ること、急行電車で立ってること、
混んだエレベーター、イベントなどの立見席などはすごく怖いです。
電車などは普通電車になるべく座って乗るようにしてます。
スイッチが入りそうなのが分かるので、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と
意識を逸らそうとしますが、どうしてもダメな時はそこから離れます。
どうしても乗らなきゃいけないとか、行かなきゃいけない時は、
ずっと前から不安がつきまとってしまってます。
最近は芸能人の方でも結構患っていて治療をされてる方も多いみたいですね。
私は特別に治療はしておりません。
漢方を飲んでますが、パニック症だからという訳ではないです。
これも自分の一部なので、上手く付き合って行こうと思ってます。
心って不思議だな~と思います。