聞く耳のあるものは聞きなさい
聖書の中でイエス様が時々言われる言葉があります。
「聞く耳のあるものは聞きなさい。」
これは「聞き続けなさい」という意味や「注意して聞きなさい」という意味だったりします。
聞く耳のないもの(聞こうとしない者)にとっては、それが神様の御言葉であっても
それはただの「音」となり、
注意して聞こうとしなければ、それはただの「言葉」なだけなのかもしれません。
神様は私たちに聞くこともできる、聞かないこともできる、自由意思をお与えになりました。
それは神様が私たちの意思で聞こうとしてほしいと願っているからだと思います。
権力や命令によるものではないところに神様の愛を感じます。
そして聞く耳を持った人たちをこのように迎え入れてくださってます。
『すべての重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』
わたしはやさしく謙遜な者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしと一緒に負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたの魂は安らかになります。わたしが与えるのは軽い荷だけだからです。(マタイ11:28-30)
自分の「心の声」に従うこともいいのですが、時には「神様の声」を聞いてみてほしいと願っています。
「そうすれば」神様はどのようになさるのか、神の時を待ってみてください。
私たちの考えではおよばないものをお与えくださると思います。
皆に仕える者になりなさい
イエス様がお弟子さんたちに偉くなる者についてお話しています。
これは私たちにも当てはまることだと思いました。
そこでイエスは一同を呼び寄せ言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中でかしらになりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためでなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」(マタイ20:25-28)
「この世の普通の人たちの間では、王は暴君であり、役人は部下に威張り散らすものです。だが、あなたがたの間では違います。リーダーになりたい者は、仕える者になりなさい。上に立ちたいと思う者は身を低くして仕えなければなりません。メシアの私でさえ人々に仕えられるためではなく、皆に仕えるためにこの世に来たのです。そればかりか、多くの人の罪の代償として自分の命を与えるために来たのです。だからあなたがたも私を見習いなさい。」
日本にも似たような言葉がありますね。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな。」
やはり神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えてくださるのだな~と思いました。
私も「自分が、自分が、」と自分を中心に思ってしまいがちです。
神様によって私も角の取れた、トゲが丸く削られたような人につくり変えてもらいたいです。
いつの日か「神様が、」と、神様を中心に置いた心でいられるようになりたいです。
どうか、そのように私を造りかえてください。主の御名によってお祈りいたします。
枯れた柴をお選びになる方
生きていると自分の弱さを感じたり、劣等感を感じたり、自分の不甲斐なさを感じたりするときも多いと思います。
牧師先生がある宣教者の方がメッセージをくださった話を教えてくださいました。
宣教者の方は神様がモーセに燃える柴の間から語りかけたところの聖句(出エジプト記3:1-6)を用いてメッセージしてくださいました。
神様は美しい柴や雄大な柴ではなく、枯れた柴をお選びになり霊の灯を灯してくださいました。
もしあなたが神様に用いられたいなら、「私に何が出来るだろうか。」と思い悩むのではなく、何もない自分の中に神様が生きて働いてくださるように求めなさい。
神様はむしろ、小さい者、弱い者、枯れた柴をお選びになり、そこから神様の大きな力をもってお働きくださり、大きな奇跡と恵みをお示しくださって、救いをお与えになることを覚えておきたいものです。
たとえ枯れた柴の中にいても、神様が霊の灯を灯してくださり、呼びかけてくださるなら、この小さな者も神様の器として用いてくださると信じることができるのではないですか。
そのようなメッセージのお話でした。
神様は仰っています。
『あなたがた皆の中で一番小さい者こそ偉いのである(ルカ9:48)』
弱い時こそ、神様に強くしてくださることを忘れたくないですね。
悪から離れて善を行う
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。
あなた方は祝福を受け継ぐために召されたからです。
「命を愛し善い日々を過ごしたい人は悪から舌を、あざむきの言葉から唇を守れ。
悪から離れ、善を行え平和を求め、これを追え。
主の目は正しい者に注がれその耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の御顔は悪を行う者に向けられる。(ペトロの手紙3:9-12)
人からの悪意に報復するのはやめなさい。侮辱されたからといって口汚くののしり返してはいけません。かえってその人のために神の祝福を祈りなさい。
あなた方は神の祝福を分け合う者とされているのです。
幸福な生涯を送りたいなら、舌を抑えて唇からウソが出ないようにしなさい。
悪から遠ざかって善を行いなさい。平和を追い求めて手に入れなさい。
主は常に自分の子供たちを守り、その祈りに耳を傾けてくださいます。しかし、悪を働く者には、主の厳しい顔が向けられているのです。
弟子のペトロさんは、私たちの弱い心に強い戒めにもなる言葉を伝え残しています。
読めば「もっともだなぁ」と思いますが、実行に移すには大変なことかもしれません。
けれど、「私には無理」と諦めず、その中で苦悩しているところも神様は見てくださっていると思います。
少しずつ、一歩ずつ、神様の御言葉を理解して私を造り変えてもらえるように望みたいと思います。
読んでくださる方に少しでも神様の御心が残ることを願っています。
神様によって変えられる
聖書の中には神様の数々の奇跡のお話が載っております。
人を生き返らせたり、病気の人を治したり、癒したり、時には町を滅ぼすこともなさっています。悪霊に取りつかれた人を正気に戻すこともなさっています。
そんなお話を学ぶ中、牧師先生はこうメッセージをくださいました。
「神様は病気の人を癒したりなさるだけではなく、人の人格や生き方、人生まで変えてくださる奇跡をお与えになるんですね。人が変わる奇跡もお与えになるんですね。」と。
そして「神様に出来ないことは何ひとつないのですね。(ルカ1:37)」と仰っていました。
私も神様によって救われた1人だな~と思って聞いておりました。
牧師先生はこう仰っています。
「神様は生きておられます。そして私たちを救ってくださいます。」
私たちが神様を信じ求め祈るなら、神様はイエス様の御名を通して私たちの祈りに応えてくださいます。
私たちが神様を感じようと感じまいと、神様は私たちのために祈ってくださってます。
私たちが人生につまずかないように、つまずいた時に神様に救いを求めてくれるように、神様に立ち返るようにと。
「恐れることはない。」「思い煩うな。」「ただ、信じなさい。」
いつもそう仰ってくださるその言葉に励まされながら、私も神様の御手で造り変えてもらおうと思います。
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(マルコによる福音書10:30)
神様の御言葉は永遠
神様の御言葉でたくさんの方が救われたり、立ち返ったり、癒されたり、感動されたりしていると思います。私もたくさんの御言葉で救われ慰められています。
お弟子のペテロさんは手紙で伝えています。
こう言われるからです。「人は草のようで、その栄えはみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(ペテロの手紙1:24-25)
ココに書かれている文章で「」のものは、旧約聖書のイザヤ書40:6-8のものです。
イザヤという預言者が書いた一節です。ペテロさんの時代から800年前に書かれました。ペテロさんはイザヤさんのこの一節を用いて伝えたのです。
どんな栄誉もやがては散っていく花と同じです。しかし、主の御言葉はいつまでも変わることがありません。これこそ、あなたがたに宣べ伝えられた福音の御言葉です。
ペテロさんが手紙を書いたのが、2000年近く前です。
イザヤさんからでは、2800年前です。
その御言葉が今の私たちにも伝えられ、私たちは救われ癒されています。
真理(本当のこと)は時代に左右されることなく、永遠に変わらないのだなぁ、とつくづく感じます。
それが神様の御言葉の力なのですね。
忘れちゃいけない
人に思うような態度で接する事ができなかったとしても、
心に余裕がなく家族に上手に向き合えなくても、
もっと頑張りたいのに、身体が思うように動かなくても、
自分の悪いところばかり目について、自分を否定し続けてしまっても、
過去のトラウマと葛藤していて未来の一歩を踏み出せなくても、
このままの生活では悲観的な未来しか浮かばなくても、
どんな状況においても、神様が私を愛してくださってることを忘れちゃいけない。
私が言葉を出さなくても、私の心の中までご存知であられる神様。
わたしの内で私を守り、わたしと共に歩んでくださる神様。
その神様の愛を忘れちゃいけない。
わたしは主である。わたしの他に神はない。ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。(イザヤ書45:5)