喜びについて
ある牧師先生が『喜び』について教えてくださいました。
この世にある『喜び』は、お金に関する『喜び』(お金が貯まると喜び、失くすと不安になる)
身体に関する『喜び』(健康だから喜び、病気になると不安)
地位、名誉に関する『喜び』(評価されると喜び、評価が下がると不安)
など、『物の世界の喜び・見える世界の喜び』である。
これらは、いつでも変化してしまうもの。(失ってしまう、一時的なもの)
悪人の『喜び』は、悪いと分かっていて事をなし、上手く行った時に喜ぶ。
「悪人は自らの悪を喜ぶ」
宗教的な『喜び』は、善行を積み重ねた重さによる喜び。
「私はこれだけ善い行いをやりました。」と思う喜び。
聖書にある『喜び』は、キリストにある喜び、聖霊から来る喜び。
神様が与えてくださる喜び。
この『喜び』すらも、私たちが作り出したものではなく、神様の恵みによって与えられるものだと知ること。
神様が与えられるものは、周りがどのように変化しようとも、不変的にあり続けるものである。
神様が仰った「いつも喜んでいなさい。」には、この喜びが神様から与えられた恵みによる『喜び』だということです。
何に目を向けるべきかで、私たちが受け取る『喜び』も違ってくるのでしょう。
一時的な喜びを好んで受け取ることも、永遠の喜びを受け取ることも、私たちには自由に選択できます。
そう教えてもらいました。
イエスの誕生
救い主がこの地上に到来する800年ほど前、イザヤという人が神様から頂いた預言です。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書9:1)
そして800年後、時は満ちました。
皇帝アウグストゥス(8月オーガストの名の由来)がすべての住民に、住民登録をせよと勅令を出した。
ヨセフはダビデの血筋だったので、ナザレの町からダビデの町と言われるベツレヘムへと身重のマリアと共に向かった。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋は泊まる所がなかったからである。
地方で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた。
(この頃の羊飼いは非常に身分の低い貧しい人たちです。ダビデ王もかつては羊飼い)
すると天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
(主の栄光が表されるのは500年ぶりでした。この時、神ご自身も共にいてくださっていたことになります。)
天使は言った。「恐れるな。私は民全体にあたえられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」(この、「今日」と言われた時からメシア(主)による救いが始まった。)
すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美していった。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
(天が天使の大軍でいっぱいになったのです。「いと高きところ」とは、神の隣在の場、「御心に適う人」とは、神に信頼を置く人のこと)
天使たちが去ったあと、羊飼いたちは「さぁ、ベツレヘムへ行こう」と話し合い向かった。そして飼い葉おけに寝かされている乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
昨日「イヴ礼拝に行って来ました。」そこで聖書朗読がありました。
その時の聖書箇所をざっと書かせていただきました。
とても神聖なクリスマスイヴを過ごさせて頂き、心に残りました。
牧師先生のメッセージで、「神様は生きておられます。そして私たちをお救いしてくださってます。」とありました。とても印象に残ったお言葉でした。
光は闇の中に輝いている。(ヨハネ1:5)
マリアさんと天使(イエス誕生予告)
暗黒の地と言われているガリラヤの地の中にナザレという町がある。
そこは世間から見捨てられたような人々が住むと言われる町。
そこに住むマリアという女性のもとに天使ガブリエルがやって来た。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(これは、「この世の力から切り離され、あなたの力は神から与えられる」との意味が含まれています。)
マリアはこの言葉にひどく戸惑って、よくよく考え込んだ。(この世の権威から切り離され、天使の言ったことを私は信じて受け入れられるのか?)
すると天使は「恐れることはない」と言った。
天使は続けて答えた。マリアは身ごもって、男の子を産むこと、その子は偉大な人になり、いと高き子と呼ばれること、ダビデの王座をいただくことを伝えた。
マリアは「どうしてそんなことがありましょうか、私はまだ男の人を知りませんのに。」そう答えるマリアに天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者。神の子と呼ばれる。」と答えた。
そして天使はマリアに言った。「神に出来ないことは何ひとつない。」
それを聞いたマリアは「お言葉通り、この身になりますように。」と言った。
(この言葉には「神様の全ての御言葉が私を通してなりますように。」との意味が込められている。)
マリアさんが腹をくくった瞬間かもしれません。
信仰心の厚いマリアさんが天使から「神に出来ないことは何ひとつない。」と言われた時、それを受け入れようと思われたのだと思います。
神様の目は誰もが見捨てている地の小さな1人にまで行き届き、信仰深い者に恵みを与えてくださるのですね。
そのことを恐れず、信じて受け入れた者には神様の御力によって、大きな恵みが与えられるのですね。
「神に出来ないことは何ひとつない。」
私もマリアさんのようにその言葉を信じて神様に委ねて生きていけたらどんなに素晴らしいだろうと思います。
そうなりたいな、と心から思います。
どうか、忘れないでください。(2019・12・17)
辛い経験をして、人を責め、自分を責め、「もう私はダメだ」と嘆いても、その弱さを含めすべてを受け入れ愛してくださるのが神様です。
人があなたを見捨てたとしても、「私など神様に見捨てられた」と思っても、神様はあなたを見捨てず、共におられあなたが神様に立ち返るのを待っておられます。
神様はあなたが神様の内にいて、あなたが喜びに満たされるよう願い祈っています。
「いつも神様を求め、たずねなさい。」と仰っています。
なにも心配することも、思い煩うこともいらない。
あなたが何度失敗を繰り返しても、決して見捨てず、弱い時に強くしてくださる。
だから、自分を責め続けて悲しみに暮れるなら、神様を信じてお祈りをしてください。
神様にあなたの悲しみ辛さをお伝えしてください。
あなたは決して1人ではありません。
どうかそのことを忘れないでください。
恐れてはいけません。私はあなたと共にいる。たじろいではいけません。私があなたの神だから。私はあなたを強め、あなたを助け、私の義の右手であなたを守る。(イザヤ書41:10)
命を与える言葉を使う(2019・12・15)
言葉には武器を持たずに人を殺す力も、心を失わす力もあります。鋭い刃のような言葉は、心をズタズタに切り裂くこともでき、その傷はなかなか癒えるものではありません。
それとは反対に、生きる希望を与える力も、命を吹き込む力も持っていて、心の傷を癒すこともできます。
『優しい舌は命の木である。(箴言15)』
感情で生きて、感情に支配され、人を傷つけ自分も傷つけて生きてしまう過ちを、何度も何度も繰り返してしまいます。
そのたびに情けない私と対面しています。
そんな時でも神様は私をすくい上げてくださり、清くしてくださる道を示してくださってます。
「こんな私でも『優しい舌』で人を癒すことができるだろうか?」
そんな不安は神様を信じていない罪と同じなのだろう。
「命を与える言葉を使う」
待ち望みなさい(2019・12・13)
私たちの祈りは神様にすべて届いています。すべて聞いてくださっています。
なかなか願いが叶わなかったり、切羽詰まった願いや、疑う気持ちで願い求めることもすべて知られています。
「イエス様の御名によって」願い求める願いには、イエス様が導いてくださる道によって神様のもとに願いが届けられてます。
主を待ち望め。勇ましくあれ。心を強くせよ。主を待ち望め。(詩編27:14)
イラ立ってはいけません。主を待ち望みなさい。主は必ず来てくださり、あなたを救ってくださいます。勇気を出しなさい。主はきっとあなたを救ってくださいます。
ダビデ王の詩です。
ダビデ王は、神様に願い求めたならば、必ず救ってくださると信じる強い心を持ちなさい。と仰っています。
自分の時間軸で願い求め待ち望むのではなく、神様の時間軸の中で『その時』が来るまで待ち望む強い心を私たちは必要なのだと教えてくださいました。
「神様が約束してくださった『その時』は必ず来る」と私は信じています。
人を汚すもの(2019・12・11)
みな、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って人を汚すことのできるものは何もなく、人から入って人を汚すのである。(マルコによる福音書7:14-16)
いいですか、食べ物は人の心に入るわけではないでしょう。腹に入って外へ出るだけではありませんか。
さらに言われた。「人から出てくるもの、これが人を汚す。中から、つまり人の心から、悪い思いが出てくる。淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、あざむき、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出てきて人を汚すのである。(マルコによる福音書7:20-23)
私たちは状況や、環境や、他人さんが、私たちを汚していると錯覚する時があり、そのもののせいにしがちです。
けれど、ここでイエス様は、はっきりと仰っています。『人の内側から出るものが人を汚す。』と言うことを。
心の良心や羞恥心が鈍った時、私たちは内側から自分自身を汚し、やがてそれらが外のものまで汚してしまうのでしょうね。
いつでも神様は私たちを見てくださっています。よい時も、悪い時も。
内側から出てくる汚れたものを制するには、自分自身でそれを制しようとするのではなく、心に宿る神様を見失わないように生きることがそれを制する力になるのでしょうね。