神様大好き!みーのこころブログ♪

自己愛性人格障害の父とそれに従う母に育てられ、ウツとパニック症を患い生きづらかった私。そんな私に神様が手を差し伸べてくださった☆神様から愛と光をたくさん頂いて人生必死に生きてます。神様が教えてくださった事や人やメッセージを綴っていきます♪

ありがとうございます(2019・12・7)

今日でブログを始めて1年が経ちました。

神様大好き!みーのこころブログ♪ を開設して1年が経ちました。

神様大好き!みーのこころブログ♪ を開設して1年が経ちました


何とか1年続けてこられたのも、たくさんあるブログの中から、私を見つけてくださり、読んでくださった方々が支えてくださり、励ましや温かいお言葉をくださったお蔭です。スターで気持ちを表現してくださったかたからも力を頂いておりました。 

そして何より、神様の御力です。

心から感謝しております。ありがとうございます。

 

私がブログを始めたきっかけは、神様によって救われた実感を感じたからです。

「それを自分だけのものにしておくのはいけないことだ」と感じたからでした。

けれど、ブログをすることはとても抵抗がありました。なぜなら、以前他の所でブログをしておりました。その時は何てことない日常のブログでした。それでも飽き性の私は続けることができませんでした。だから今回みたいに1つのテーマでブログを続けることは絶対に私には無理だと思ったからです。

けれど、神様が導いてくださり、「ならば、1年だけでも頑張ってみよう」と思い、やってみることにしました。

 

毎日ブログを書くことはとても大変でした。

「もう、無理です。」と何度も神様に祈ってた時もあります。

けれど、不思議と書くことができました。神様の御力が働いたのだと思います。

「書かせてもらっていた」という表現の方が正しいかもしれません。

私では考えられないような文章の運びもたくさんあるからです。

今はほぼ、神様の御力が働いていて書かせてもらってる状態だと思います。

私だけの力ではもう書くことはできません。

 

1年振り返ってみて、初めは神様のことをもっと知ってほしい思いや、神様によって救われたり、癒される体験を皆さんにも味わってほしくて、そのきっかけになれたらと思っておりました。

けれど、今はっきり思えるのは、ブログを書くことによって私が神様から、そして読んでくださるみなさんから恩恵を頂いていたということです。

神様は私にそれを知らせたかったんじゃないかな?とさえ思ってしまいます。

 

私が体験したこと感じたことはすべて聖書に書いてありました。そのことを教えてくださったのは神様やそして牧師先生や伝道者の方たちです。

ここにも神様の恩恵を感じております。

 

神様は本当におられると思います。

見えない、感じないのは自分の目を閉じ、耳を塞いで、神様から離れているからだと思います。

自分の時間軸や方法に目をやるのではなく、「神の時」と「神の方法」を待ってみてください。

 

『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音書14:6)』

 

 

これからは毎日の更新とは決めていません。ゆるい範囲で続けていけたらと思っております。こんな未熟ブログでも読んでいただけるならありがたいです。

これからも、よろしくお願いします。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

責めないで(2019・12・6)

自分を愛することは、神様を愛すること。

神様を愛することは、自分を愛すること。

神様を信じた人には、その内に神様がいてくださり、神様の内にもいることができる。

 

『イエス様の御名によって』御心に叶う祈りをすれば、必ず答えてくださると約束してくださっています。

 

だから自分を責めないで。

人を責めないで。

状況を責めないで。

自分の心を汚さないで。

神様が愛してくださる自分自身を自ら汚さないで。

心を閉ざさないで。

神様を感じてください。

 

神様はあなたが神に助けを求めることを願っています。

 

一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。(ペテロの第一の手紙5:7)

 

ヤイロさんの信仰心②(2019・12・5)

昨日の続きです。会堂長ヤイロさん(ユダヤ人の偉い人)のお話です。

ルカによる福音書8:40-42 49-56)

 

エス様が群衆の中で迎え入れられていた時、ヤイロがイエス様に近づき足元にひれ伏して、自分の家に来てほしいと願いました。娘が死にかけているのです。

それを聞いたイエス様はすぐにヤイロの家に出かけようとしたけれど、群衆が周りに押し寄せてなかなか前に進めません。

(その群衆の中でもイエス様は1人の女性の病もお助けになっています。)

エス様が話しておられる時に、ヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生(イエス様)を煩わすことはありません。」と言った。

それを聞いたイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と言われました。

家に着くと皆が娘のために泣いていました。

エス様は娘の手を取って、「子よ、起きなさい。」と呼びかけたら、霊が戻って娘はすぐに起き上った。

 

2つ目の教えです。(1つ目の教えは昨日書きました。)

 

『ただ、信じなさい。』

 

この『ただ、』は、ギリシャ語で「モノス」『第一のことを、第一として、』『たとえ自分が1人になっても』との意味が込められています。

そして、『信じなさい』には、『今こそ信じなさい』『今こそあなたが信じる時です』が込められています。

 

『ただ、信じなさい』の言葉には、「他の者と違って、あなただけは1人になっても、第一のことを第一として、今こそあなたが信じる時です。今こそ、信じなさい。」と言われています。

 

エス様の「信じなさい」には、どんな状況や環境や状態でも「恐れず信じていなさい。そうすれば必ず救われる」ことを約束してくれているのですね。

 

私も不安な時もあるし、苦しい時もありますが、神様を信じる気持ちだけは失いたくないと思っています。

神様の愛を見失いたくないからです。

ヤイロさんの信仰心①(2019・12・4)

聖書の中のヤイロという会堂長(ユダヤ人の偉い人)のお話です。

ルカによる福音書8:40-42 49-56)

 

エス様が群衆の中で迎え入れられていた時、ヤイロがイエス様に近づき足元にひれ伏して、自分の家に来てほしいと願いました。娘が死にかけているのです。

それを聞いたイエス様はすぐにヤイロの家に出かけようとしたけれど、群衆が周りに押し寄せてなかなか前に進めません。

(その群衆の中でもイエス様は1人の女性の病もお助けになっています。)

エス様が話しておられる時に、ヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生(イエス様)を煩わすことはありません。」と言った。

それを聞いたイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と言われました。

家に着くと皆が娘のために泣いていました。

エス様は娘の手を取って、「子よ、起きなさい。」と呼びかけたら、霊が戻って娘はすぐに起き上った。

 

ここから2つのことを教えてもらいました。

 

1つは、ヤイロさんはイエス様に一刻も早く家に来て、その御業で奇跡を起こしてほしいのに、イエス様を待っておられたこと。

 

人は一刻の猶予もない時こそ、傲慢になり、人を裁いてしまいがちです。

事が上手く進まなくても、自分の思いとは裏腹になっても、イエス様を全面的に信じて待つことが大切だということです。

 

私も焦ると結論を早く求めたり、早く事を進めようと強引になったりしてしまいます。

こんな時こそ、祈りによって神様がお答えくださるのを信じて待たなくてはいけないのだと、ヤイロさんの信仰の深さから学びました。

 

2つ目はまた明日~。

主にあって喜びなさい(2019・12・3)

パウロというお弟子さんが書いた手紙には、「何も心配しないで、ただ神様を信じていなさい」と伝えております。それがどれ程大きな力になるのかも教えてくださっています。

 

主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いです。何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平安が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るのでしょう。(ピリピ人への手紙4:4-7)

 自己中心的にならず、あなたがたが思いやり溢れていることを、誰もが知る者になりなさい。主がもうすぐ来られると、いつも意識していなさい。

何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。

そうすれば、人間の理解を遥かに超えた素晴らしい神の平安を経験します。

キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。(リビングバイブルより)

 

すべては主イエス・キリストを通して私たちの喜びも、平安も、祈りの答えも与えてもらえると教えてくださってます。

ですので、「主にあって喜びなさい」なのです。

 

神様から与えて頂いたものは、私たちの考えを遥かに超えているので、心が湧きあがるような、心に沁み入るような、心が震えるような、そんな素晴らしいものを与えてくださるのですね。

 

「ただ、信じなさい」と仰るイエス様の御言葉を信じて、神様からの恵みを受け取ってみてはいかがですか?

隠れた施し(2019・12・2)

私たちは人に良い施しをした時に、相手から感謝されなかったり、当たり前に思われたり、迷惑がられたりしたらガッカリしてしまい、その相手に嫌な感情が湧いてくると思います。「せっかくやってあげたのに」と。

そして、自分の良い施しを相手に分かるように行って認めてもらおうともするのではないでしょうか?

だって、褒められたいですもんね。

 

神様はこう仰っています。

見てもらおうとして、人前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。だから、施しをする時には、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。施しをする時は、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイによる福音書6:1-4)

 良い施しをした時に、人に分かるようにすると、もうすでに人から報いを受けたので、天の神様からは報いは受け取れません。私たちが施す隠れた善行は、どんなに小さなことでも、神様は必ず報いを与えてくださるとのことです。

 

私たちが人に対して行ったこと全てはその人を通じて神様に行っていることなのです。ですので、その人が施しに気づこうと気づくまいと、神様に捧げる気持ちを持つことが、神様からの報いを受け取ることに繋がるのでしょうね。

 

そう思えた時、人に対しての見返りも高慢な気持ちもなくなり、ただ、私の施しに気づいてくださった神様に感謝をしたくなるのだろうと思いました。

人の言葉は神様の御言葉(2019・12・1)

聖書の学びで、牧師先生が教えてくださった話です。

 

私たちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、まさに、神の言葉として受け入れたからです。この神の言葉は、信じているあなたがたの内に今も働いているのです。(テサロニケ2:13)

 この『人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた』は、「信仰を持って人の言葉を聞くならば、それは神様の御言葉として聞く事である。」とのことです。

 

特に聖書の中の言葉は、「聞いて受け入れるだけの人(ギリシャ語では『手に持つ』の意味もあるそうです。)」ならば、その時は「素晴らしい教えだ!」と喜んだり、感激しても、後には何も残らない。ただ、手に持つだけで終わってしまう。

そしてそれは手を放せば落ちてしまうようなものです。

 

しかし、聖書の中の言葉を、「聞いて悟る人(ギリシャ語では、『理解する』の意味もあるそうです。)」には、その言葉を自分でしっかり飲み込み、やがて血となり肉となり、その言葉を自分の生活や人生に生かされていくのだそうです。

 

聖書の文脈の一部だけ切り取って間違った解釈で伝えている人も多いそうです。

それはとても危険な事で、神様から離れた間違った思想になってしまいます。

(それらはサタンによるものだとも言われています。)

 

「高慢な心は損を招き、へりくだった心は益を招く。それが自然の法則である。」という言葉があるそうです。

神様から離れて、自分が神様のように振る舞ったり自分を中心に考える事は、高慢に繋がります。

 

今回のお話で、人から教えてもらう言葉も、聖書の中の言葉も、「ただの言葉」と取ることも、「神様の御言葉」と取ることも、私たちの心次第なんだと改めて感じました。

 

素敵な恵みあるお話でした。