神様大好き!みーのこころブログ♪

自己愛性人格障害の父とそれに従う母に育てられ、ウツとパニック症を患い生きづらかった私。そんな私に神様が手を差し伸べてくださった☆神様から愛と光をたくさん頂いて人生必死に生きてます。神様が教えてくださった事や人やメッセージを綴っていきます♪

神様の像①(ダビデ王の詩)(2019・9・7)

ダビデと言う王様をご存知ですか?

今から3000年ほど前の王様です。とても勇敢な王様で、預言者でもありました。

のちにソロモンという子を授かり、その子ソロモンがダビデの王国を継ぎました。

ダビデは芸術的なセンスもあって、神様の存在をとても大切にしていた彼はたくさんの詩を残してます。(旧約聖書詩編というところです)

その中の詩で、神様をとても分かりやすく詠んでるものがあります。

それをお話したいと思います。

きっとぼんやりとしか分からなかった神様の像(イメージ)が分かってくると思います。

 

詩編139:1-6

主よ。あなたはわたしを探り、私を知っておられる。あなたこそはわたしの座るのも、立つのも知っておられ、わたしの思いを遠くから読み取られます。

あなたはわたしの歩みとわたしの伏すのを見守り、わたしの道をことごとく知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手をわたしの上に置かれました。

そのような知識はわたしにとってあまりにも不思議、あまりにも高く、及びもつきません。

 

私たちはぼんやりと「神様は見ている」と思っていたり、いるのかいないのか分からない、信じがたい思いの中で祈っていたりするかもしれません。

あるいは、困った時だけ「いる」と思い、普段は「どうでもいい」と思っているかもしれません。

 

けれど、神様は私たちが気づこうが気づかなくても、こんなにしっかり私たちを見守ってるんです。

これを「怖い」と思う人、「ありがたい」と思う人がおられると思います。

「怖い」と思う人はきっと神様から離れてる人だと思います。

 

私たちが人生を歩んでる姿も、気に病んで伏してる姿まで見守ってくださり、

私たちを囲って御手を置いてくださってるんですね。

私たちにいつも触れてくださってるんですね。

私はとても「ありがたい」と思います。

 

まだまだ続きます。(詩編139:7-12)

 

 

大空を眺めてみてください(2019・9・6)

「何だか今日は冴えないな~」とか、「一生懸命頑張ってるのに報われない」

「ああ、疲れたな~」とか、「何もやる気がでない」なんて思う時、

空を見上げてみてください。大きな大きな空を見上げてみてください。

この空はどなたのために造られたかご存知ですか?

あなたのためです。

 

神はまた言われた、「天の大空に光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、年のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ。」そのようになった。

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれを天の大空に置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光と闇とを分けさせられた。

神は見て良しとされた。(創世記1:14-18)

 

神様は4日目に空と太陽と月と星をお造りになりました。

それはこのあと生まれてくる私たちのためにです。

天と地の光をお造りになって、神様は「良し」とされたんです。

私たちにとって「良し」とされたんです。

 

ある伝道者の方が仰っていました。

「太陽より私たちの方が偉大なんです。太陽はただ熱いだけで、太陽自ら熱さを感じません。

宇宙より私たちの方が偉大なんです。宇宙はただ大きいだけです。大きな空間なだけです。なぜなら、太陽にも宇宙にも人格がないからです。

神様は私たち人間だけに人格、自由意思を授けてくださいました。

それは私たち人間だけが神様との交わりができるために造られたからです。」と仰っておりました。

 

もし、この大空が私たちのためにお造りくださったものならば、

もし、私たちが平安で喜びの中で生きるために必要だと思い造ってくださったなら、

 

大空を眺めながら、そんなことを思ってみてはいかがですか?

 

神様への祈り(2019・9・5)

私たちがお祈りをする時、「こんな事は願ってはいけないだろうか?」とか、

「あまりずうずうしく何でも願い求めるのは失礼ではないか?」とか、

「どんな願いをするのが正しいのだろうか?」などと考えてしまいます。

これらすべて私たちのこの世のものさしです。

 

神様は『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見い出すであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。』と仰っています。

神様は私たちが考えるより、人知をはるかに越えた考えで私たちのことを思ってくださる方です。私たちが祈り求める前から私たちの悩みや祈りをご存知の方です。

私たち人間の狭いこの世のものさしで勝手な判断をする方が高ぶることだと思いました。

 

この続きで、『自分の子に「魚が欲しい」言われて、ヘビを与えるだろうか?

卵を求める子にさそりを与えるだろうか?』とたとえられてます。

そして人の親でも自分の子には悪いものを与えず良いものを贈ることを知っているだろうと言われ、『天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊をくださらないことがあろうか。』と言われてます。

 

神様は私たちが思っているどうしようもない思いの祈りや、恥ずべき祈りをせず、

建て前ばかりの祈りや遠慮する祈りを求めているのではありません。

感謝を捧げたい時は感謝を捧げる祈りをし、賛美したい時は賛美する祈りをし、赦してほしい時は許しを請う祈りをし、お願いしたい時は願い求める祈りをし、いつも神様を身近に思い頼ってほしいと望んでおられる方です。

 

どうぞ、ご自分のものさしではなく、神様に遠慮せず、祈り求めてください。

神様は御心にかなう願いなら(私たちに必要なことならば、)叶えてくださいます。

平安と喜びと共に。

 (ルカによる福音書11:9-13)

 

なぐさめる人(2019・9・4)

『神はいかなる患難の中にいる時でも、私たちをなぐさめてくださり、』と書いてあります。

私たちが苦しみの中で悩み生きている時、神様は私たちをそばでずっとなぐさめてくださっています。それを感じようと感じなかろうと関係なく、神様はそうなさってくださっています。なぜなら、神様にとって私たちが特別な存在だからです。

 

『また、私たち自身も神になぐさめて頂くそのなぐさめをもって、あらゆる患難の中にある人々をなぐさめることが出来るようにしてくださるのである。』と続いてます。

私たちは悩み苦しんでいる人をなぐさめることが出来ます。

それは、私たちが神様の御心によってなぐさめられた、そのなぐさめが私たちにも備わったためです。

 

悲しみや苦しみで涙している人がいたら、神様から頂いたなぐさめをもって私たちもその人たちによりそいましょう、と言われてます。

 

誰もひとりぼっちではありません。

けれど、それを知らない人はひとりぼっちを感じているのかもしれません。

それは救いが一切ないような世界にいるようなものなのかもしれません。

 

人は誰でも救われます。

誰でも神様のなぐさめを受け取ることができます。

そのなぐさめを持って、私もなぐさめられる人になれたら、と思いました。

 

(コリント人への第2の手紙1:3-4)

私たちの願望(2019・9・3)

神様に自分の願いを叶えてもらうためお祈りをしますが、その願望が神様から与えられているものと自分から出た願望とがあります。

 

神様が私たちを通して願望を私たちにお与えになったもの、

それは神様の御心からお与えになったものです。

 

その願望には平安があります。

そして喜びがあります。

その願望は愛に根差したものであり、神様の栄光を表すものであると言われてます。

 

自分の欲から出る願望には、不安があり、平安も喜びもありません。

そしてそれらは自分の栄光を表すものだと言われてます。

 

病気の友達の快復のために祈る祈りには自分の栄光はありません。

それを叶えてくださる神様の栄光があります。喜びも平安もあります。

 

けれど、その友達に偽りの物を与えて「これで病気は治るよ」と言って、

神様に願い求める願いには、自分の栄光のためであり、叶わなければ恥をかく不安が生まれます。

 

何かの願望を祈りで求める時、その願望は誰の栄光のためになるのかを考えて、

もし自分の栄光のためならば、その願望は叶っても喜びなく、平安のない、不安なものになると思ってください。

 

そしてその願望が、神様の栄光のためならば、喜びと平安を感じてください。

神様のご計画(2019・9・2)

神様は私たちひとりひとりに神様のご計画を持っておられます。

 

あなたがあなたであるのは、あなたが神様の祝福を完全に得るために神様があたなをお造りになったからです。

そしてあなたが神様の栄光を表すためです。

 

けれどこの世に生きていると、それが神様のご意志によるものなのか見極めることは難しく感じてしまいます。

特に苦しみの中で生きていると、「なんでこんな思いをしなきゃいけないの?」とつい思ってしまいます。

 

主は言われる。わたしがあなたがたに対して抱いている計画は、

わたしが知っている。

それは災いを与えようというものではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

(エレミヤ29:19)

 もしも今、辛い思いをされていても、神様は決してあなたに災いを与えているのではなく、その辛さによって成長し、義の道(正しい道)に導こうとしています。

いつも神様はあなたを導いてくださってます。

決してその辛さをひとりで乗り越えさせようとは思っておりません。

いつも傍らには神様がいてくださってます。そして道も与えてくださってます。

あなたの将来を、希望を、あなた自身を、祝福するためにあなたをお造りになったのだから。

 

もし辛くてそれが神様のご計画だと感じないならば、祈りによって神様に伺ってみてください。きっと平安と共に答えてくださると思います。

 

その時必要なことは、「神様の存在を信じる」ことです。

種のゆくえ(2019・9・1)

ある時神様は、私たちが御言葉をどのように扱っているかを、”種を蒔いた行く末のたとえ”で教えてくださいました。

 

ある種は、『道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。』

ある種は、『土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないのですぐ芽を出したが、日が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。』

ある種は、『いばらの中に落ちた。するといばらが伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。』

ある種は、『良い地に落ちた。そして生えて育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。』

 

このたとえは、神様の御言葉を聞いた私たちの心を表してます。

『種まきは御言葉を蒔くのである。』としっかり言われてます。

 

道端に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐにサタン(悪魔)が来て、彼らの中に蒔かれた御言葉を奪って行くのである』

御言葉を聞いても、「うそだ~」とか「そんな訳ない」と言って心に留めず流れてしまうことです。

 

石に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち御言葉のために困難や迫害が起こってくると、すぐにつまずいてしまう。』

 

いばらの中に蒔かれた種とは、『御言葉を聞くが、世の心使いと富の惑わしと、色々な欲とが入ってきて、御言葉をふさぐので実を結ばなくなる。』

この世の誘惑や肉の欲などに負けて、御言葉を聞いても実らないことです。

 

良い地に蒔かれた種とは、『御言葉を受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのである。』

ひとつの御言葉からたくさんの心を救い、人を救うようになることです。

 

そして言われてます『聞く耳のあるものは聞くがよい』

 

私はどの種まきをしているのだろう。

良い地で種まきが出来ているのだろうか?

きちんと芽が出て育っているのだろうか?

それを知るのはまだ先になるのだろう。

だからいつでも御言葉を聞き逃さず、流さず、細胞すべてにいきわたるまで心に沁みこませて生きていきたいです。

 

(マルコによる福音書4章より)