神様の嘆き
先日の礼拝で牧師先生がお話くださった聖書の学びです。
イエス様と三人の弟子たちが山から降りてくると、1人の男が叫んだ。
「先生どうか息子を見てやってください。」
霊が息子に取りつて痙攣させ、泡を吹かせ、なかなか離れません。他の弟子に霊を追い出すように頼んだけれど、出来ませんでした。
イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなた方と共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの息子をここに連れてきなさい。」
この『ゆがんだ』とは、ギリシャ語の聖書によると「まがった、腐敗した、堕落した、」との意味もあり、ここの表現がギリシャ独特の表現方法で、『第3者によって~』の表現とのことです。
ですので、『第3者によってゆがんだ時代』と言えるそうです。(ここでの第3者はサタンを表しています)
そんな第3者(サタン)によって信仰心が薄れ、不確かな信仰心になったゆがんだ時代にイエス様は嘆かれた。とのことです。
からし種ひと粒ほどの信仰でもいいのに、それすらない。(マタイ17:20)
そして牧師先生は話されました。
「私たちの信仰も、いつのまにか薄くなり、堕落してしまいます。それをイエス様は嘆かれています。嘆きながら、それでも私たちを助けてくださいます。
イエス様が嘆かれていることを、私たちも覚えておかなければなりません。
私たちの小さな信仰がサタンによって曲げられることがないように、聖霊なる神様の御力が私たちに降ってくださいますように、包み込んでくださいますように、そう祈る必要があります。
そして神様ご自身が私たちをお守りくださることを祈り待つことです。」
そう教えてくださいました。
私も弱さゆえに感情の波が揺れて、神様を見失い、自分勝手な言い訳をし、醜い心になる時もあります。
けれど、そんな私に神様は嘆きながらでも私をお見捨てにならず、包んでくださり、救いの道を与えてくださっているんだと、忘れてはいけないと思いました。
そして諦めることなく、また立ち返ることを繰り返していかなければと思いました。
(ルカによる福音書9:37-43)