「もう泣かなくともよい」(2019・10・1)
今日習った箇所の聖句は、神様の深い愛情を感じる箇所でした。
(ルカによる福音書7:11-17)
イエス様が弟子達とナインという町に行かれた。イエス様が町の門の前に近づかれた時、
ある1人の母親の息子が死んで、棺が担ぎ出されていたところでした。
この母はやもめでした。(ご主人が亡くなった人)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
(ルカ7:13)
ココに書いてある『憐れに思い』と言う表現は、ギリシャ語では『内臓』と言う意味です。「内臓が痛むほどに悲しい思い」とか「はらわた深くまでに悲しい思い」のような深い深い悲しみのことです。
ご主人にも先立たれ、息子さんにも先立たれたこの母親を見て、イエス様は『はらわた深くまで』悲しい思いになったのです。
そして祈ることも、救いを求めることもしていないこの母親に対して、イエス様自ら近寄っていき、「もう泣かなくともよい」と言葉をかけてくださったのです。
この後、イエス様は神の奇跡を起こします。
棺に手を置き「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると息子さんは起き上がり、イエス様は息子さんを母親にお返しした。
それを見ていた人々が「大預言者が我々の前に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
神様はひとりのやもめの母親を『はらわた深くまで』悲しまれ、祈り求めていたわけではない母親に神様自ら近づき、声をかけて、手を差し伸べてくださったのです。
人が本当に悲しみの中にある時、神様は放っておけない方なのです。
たとえ信仰心がない人が悲しみの中にある時でさえ、同じように神様は自ら近づいて「もう泣かなくともよい」と声をかけてくださる方です。
たとえどんな理由で導かれたとしても、神様と出会う時、それは神様から近づいてくださり、私たちを導いてくださったんだと言うことです。
悲しみに暮れている最中でも、「何となく導かれたような感じ」とか、「この言葉がスーッと入ってきた」とか、「信じられない奇跡が起きた」とか、「悲しいのに癒された」とか、「偶然教会に来た」とか、心に言いようのない感情が湧きあがった時、その時はあなたの悲しみを憐れんでくださった神様自らが近づいてくださったのかもしれません。