神様の像②(ダビデ王の詩)(2019・9・8)
昨日の続きで、ダビデ王の詠んだ神様をイメージしてる詩を紹介します。
詩編139:7-12
わたしはあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。わたしはあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、わたしが天に上っても、そこにあなたはおられ、わたしがよみに床をもうけても、そこにあなたはおられます。わたしが暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでもあなたの御手がわたしを導き、あなたの右の手がわたしを捕えます。たとい、わたしが「おお、闇よ。わたしを覆え。わたしの回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、闇も暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
神様はどこにでもおられることを話されてます。
『天に上がっても』と『よみに床をもうけても』とは、神様を信じる人とそうではない人が死後に行ける場所の違いです。「天国、よみの国どちらに行ったとしても」ってことです。ダビデ王は神様を信じる人でした。なので、『天に上がっても』の前に『たとい』とつけられてるんですね。その『たとい』は『よみに床をもうけても』にかかってるんだと思います。
『暁の翼』とは、太陽の昇る方向にある翼で、『海の果て』とは、太陽の沈む方向です。このことで、真逆の方向を対比させることによって『すべての方向』と言う意味を指してます。
私たち人間がいくら優れていても、夜の闇を操ることもできないけれど、神様はどこにいても神様の栄光の光によって、夜も光輝いていると言ってます。
ただ、今の世の中、夜も人間の力で昼のように明るく照らすことが出来るようになってます。神様の力を人は文明の力で手に入れようとしてます。
私たちにはとてもありがたく便利な世の中になっているのですが、神様のように振る舞ってきている人間に対して、神様は今どのように思われてるんでしょうね。
続きます(詩編139:13-18)