忘れちゃいけない
人に思うような態度で接する事ができなかったとしても、
心に余裕がなく家族に上手に向き合えなくても、
もっと頑張りたいのに、身体が思うように動かなくても、
自分の悪いところばかり目について、自分を否定し続けてしまっても、
過去のトラウマと葛藤していて未来の一歩を踏み出せなくても、
このままの生活では悲観的な未来しか浮かばなくても、
どんな状況においても、神様が私を愛してくださってることを忘れちゃいけない。
私が言葉を出さなくても、私の心の中までご存知であられる神様。
わたしの内で私を守り、わたしと共に歩んでくださる神様。
その神様の愛を忘れちゃいけない。
わたしは主である。わたしの他に神はない。ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。(イザヤ書45:5)
聖書を学んで
聖書を学んで思うこと。
神様をおそれ信じる生き方と、「神なんていない、関係ない。」と思う生き方の人では、同じように聖書を読んでいても、解釈がまるで違ってくるそうです。
それは聖書は霊感を通して書かれた書物だからです。
(人が神様に操られて勝手に書かれたものではありませんが。)
著者が書いたものに対して神様が保証してくださったのです。
このように牧師先生は仰っていました。
神様の御言葉は聖書が語っています。霊の力が心(魂)に働き、心に神様の宿る人には、神様はいつも共におられ、力になってくださるため、聖書を読解する力はなくても、解釈を教えてもらえたなら、理解できる力は与えてもらえていると思います。
過去の私は占いや神秘的なこと、スピリチュアルなことが大好きでした。
熱心に頑張っていました。
聖書で真理を学んでいく内に、最近ではそれらのことから自然と卒業出来てきました。真理は聖書にすべて書かれているからです。
『光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に勝たなかった。(ヨハネ1:5)』
光とは真理(キリスト)を表しています。暗闇はこの世の価値観(サタン)を表しています。
「暗闇は光に勝たなかった。」この「勝たなかった。」は、「理解できなかった。」が原文に近いそうです。
この世の価値観の中で生きていることは本当のことが理解できないのだと教えてくださっています。
この御言葉を教えてもらった時、この世にいても少し光が見えました。
とは言いつつ、まだまだ真理に触れた程度で、分からない事だらけです。
ただ今は「光は闇の中で輝いている」ことを信じたいと思います。
種まきと刈り取り
パウロさんが教会に送った手紙の中に、種まきと刈り取りのたとえを用いて、私たちが神様に対して、人々に対して、日々どのように過ごしていけばいいのかを教えてくださっています。
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔くものは、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔くものは、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。うむことなく励んでいれば、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ6:7-9)
自分勝手な振る舞いは、神様との繋がりまで刈り取ってしまい、神様と繋がる唯一の霊まで滅ぼしてしまえば、神様による救いも受け取れなくなります。
失望せず、諦めずに心に宿る聖霊によって種を蒔けば、やがて祝福を刈り取る日が来るのだと教えてくださってます。
時々心の中に自分の見たくないどうしようもない醜い思いが姿を見せる時があります。
放っておくとやがて大きな醜いものになり、それを刈り取らなくてはいけなくなります。
そんな刈取りはしたくありません。
そうならないように、また、そうなった時、神様によって救われるように祈る日々を送りたいです。
御言葉
アメリカの昔の牧師さんが教えてくださったことです。
神様の御言葉は御霊(聖霊)を通して私たちの心の奥深いところまで届けてくださり、理解された時に、私たちの内におられるキリストが働きかけてくださるそうです。
聖書から神様の御言葉をただ読んでいるだけでは神様の『御言葉』は、ただの『お言葉』のままだということです。
その御言葉を飲み込み、自分の中に取り込んでこそ、その言葉の力が発揮されるのだと仰っているのですね。それも神様の御力を持って。
そしてその御言葉は一時的な救いではなく、私たちの心を、人生を救ってくださる力になるのだと思います。
「神様なんていない」とか、「神に助けてもらわなくて結構です」と言った人生観は勇敢で立派に見えるかもしれませんが、そのような人生観をもっている人たちには、神様の御言葉はずっと『ただのお言葉』のままなのかもしれませんね。
人の弱さを知る
ダビデ王の詩です。
父が子らに憐れみをもたらすように、主をおそれる者らに憐れみをもたらす。
主は私たちがチリにすぎないことを覚えておられる。
人の日々は草のよう。
野の花のように咲くのみ。
風がそこを吹き抜ければ消え失せ、生えていた場所も もはやそれを知らない。
しかし、主の慈しみはいにしえからとこしえまで主をおそれる者の上にあり、
その義は子らの子に。その契約を守る者に、その諭しを心に留めて行う者におよぶ。(詩編103:13-18)
主をおそれかしこむ者に対しては父親のように優しい思いやりを示してくださる。
土のチリにすぎない私たちは、草花のようにはかなく、風に吹き飛ばされて消えるようなちっぽけなものであることを知っておられるからです。
しかし主は、主を信じる者には、いにしえ(生まれるはるか前)から、とこしえ(永遠)まで慈しまれます。
私たちは神様が土のチリから造られたことを忘れ、神様に背を向けて生き、自分がとても優れた者と勘違いしたりする時があります。
もしかしたら、悪魔が耳元で「あなたは神のように優れている」と吹き込んでるのかもしれません。かつてアダムとエバが騙された時のように。
本当は草花のようにはかないものだと知らなければいけないのでしょう。
そしてその弱さを知ることにより、神様を畏れ、神様の恵みを頂けるのだと思います。
この詩から、王だったダビデさんは自分の弱さをよく知っていたのだろうな、と思いました。
神様からのメッセージ
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ゆっくりペースになりますが、また神様を通して皆さんと交わっていけたら嬉しいです。
お正月に神社参拝されて、おみくじを引かれた人も多いと思います。
おみくじは神様の御言葉、メッセージ、と思われて心に留めている人も多いのではないでしょうか。
聖書の中にも、おみくじのように戒めや忠告や教えが多く書かれています。
おみくじを引いたような気持ちで心に留めてもらえたら嬉しいです。
私の戒めを心に保て。あなたには長寿と命の歳月が与えられ平和が増し加わる。
慈しみとまことがあなたを捨てることはない。それらを首に結び、心の板に記しておけ。
あなたは神と人の前に好意と良い成果を得る。心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼るな。
どのような道を歩む時にも主を知れ。主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。
自分を知恵ある者などと思わず主を畏れ、悪から離れよ。
それはあなたの癒しとなり、あなたの骨の潤いとなる。(箴言3:1-8)
いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。
この2つを心から行えるようにしっかり身につけなさい。
そうすれば、あなたは神様と人から喜ばれるでしょう。
正しい判断と英知を得たいなら、決して自分に頼るのではなく、主を信頼しなさい。
主がどうすれば良いのか教えてくださり、それを成功させてくださいます。
自分の知恵を過信してはいけません。むしろ主に信頼して悪の道から離れなさい。
心も体もみずみずしく元気がみなぎります。
神様の御言葉メッセージを自分のものにしたいなら、それに一喜一憂するのではなく、その御言葉をしっかり理解して心に留めておくことが大切ですね。
神様もきっとそう望まれていると思います。
今年も皆さんにとって喜び多い年であられますように。
十字架を背負って
牧師先生のメッセージを聞いて。
私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。(ルカによる福音書9:23)
『自分を捨て』とは、「自分が第一になることではなく、神様が第一になりなさい」とのことです。いつも何か思いが巡った時、「神様ならどうなさるだろう?」と言った気持ちを持ちなさい。と言われているのだと思います。
今は「自分を信じて、自分がどう思うかが大切」と言った事が良いことのような風潮です。私もそう思うことで救われもしました。
けれど、自分の思いは移ろいやすいものです。そしてこの考えは間違うと高慢な道にも進みます。
もう一歩進んで考えることが高慢にならず、愛ある道に繋がるのだと感じました。
そして、『日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。』
私たちも日々、自分の十字架を背負って生きていると思います。
ある人は病気、ある人は家族の問題、人間関係、経済的な苦しみ、仕事不振など。
ドイツのシュラッタ―牧師がこう話されてました。
「一生を通して日々新しく目の前に置かれることをこなしていくのがキリスト者の課題である。」
(日々私たちに与えられる課題をしっかり背負ってキリストに従い生きる。とのメッセージです。)
みんな色んな自分の十字架を背負って生きています。
「何でこんな人生なの!」「私ばっかりいつも何で!」と嘆きたくなることもあります。
それでも神様は「自分に十字架を背負って」と言われています。
けれど、「私に従いなさい。」とも言われてます。
それは、私が背負う十字架を神様も一緒に背負ってくださるためだからなのだろうと思います。
1人で背負う十字架は計り知れない重さです。
そして私たちには、自分の背負う十字架を神様と共に背負うという道もあることを覚えておいてください。
最後に牧師先生はこう祈ってくださいました。(祈りの一部です)
「病の中にある方をどうぞあなたが癒してお守りください。色々な重荷を負っている方に、どうぞあなたが重荷を取り除いてくださり、荷を軽くしてあなたがお支えください。傷ついている方に、あなたが癒してください。すべてのことをあなたにお委ねし、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げします。アーメン」