神様の性質(2019・9・14)
『主は憐れみに富み、恵み深く、怒ること遅く、慈しみ豊かでいらせられる。
(詩編103:8)』と書かれています。
神様の性質を表しています。
それがどれぐらいのものなのか、
『天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜る慈しみは大きい、
東が西から遠いように、主は我らのとがを我らから遠ざけられる。
父がその子供を憐れむように、主はおのれを恐れる者を憐れまれる。
(詩編103:11-13)』と続きます。
神様は天地や東西の大きさで神様の慈しみの大きさを表してくださってます。
『とが』とは、過ちや、良くない行いのことです。
それらを遠ざけてくださると仰っています。
なぜなら、
『主は我らの造られたさまを知り、我らのちりであることを覚えていらせられるからである(詩編103:14)』
私たちが神様から目的あって土から造られたことを覚えてられるからです。
人は草のように弱く、人の栄誉は野の花のようなもの、風が吹けば消えて無くなり、
後には誰も覚えていないもの、と、たとえられ、
『しかし、主の慈しみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、(詩編103:17)』と続きます。
神様の慈しみはずっと果てしなく続くと仰ってます。
ただ、ココに書かれている中で大切なことは、『主を恐れる者』と書かれていることです。
この『恐れる』とは、恐怖することではなく、「神々しい」とか、「素晴らしすぎて言葉も出ないような」とか、「賛美するほどの」のような恐ろしさです。
神様に対してその恐れを持っている人は、神様から大きく、深く、永遠に愛されることと仰っています。
その愛を感じるには、まず神様の存在を信じるところからです。
あなたの幸せを誰よりも望み、人生につまづかないように祈り、あなたが人生につまづいた時に救ってあげたいと願っておられる神様、
あなたの神様を感じてみてはいかがですか?
望むものを与えられるには(2019・9・13)
『あなたがたがわたしに繋がっており、わたしの言葉があなたがたにとまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(ヨハネ15:7)』
この『あなたがたがわたしに繋がっており』とは、神様という存在を信じ受け入れている人のことです。
なぜなら、その人たちは、神様が聖霊さまを私たちの心に宿らせてくださり、聖霊さまの力で霊の部分で神様と繋がれるからです。
『わたしの言葉があなたがたにとまっているならば、』とは、
そうして神様と繋がった人たちが、神様の御言葉を自分の都合で聞き流さず、いつも心に留めているような人ならば、ということです。
決して自分の都合で聞きたい時だけ聞いて、事が上手くいったなら、忘れてしまうのではなく、いつも心に御言葉が留まり続くような人になることを求められてます。
どのようにすれば、心に沁みこんでいられるのだろう。
どのようにすれば、私のどこを切っても神様への想いで満たされていられるだろう。
あああ、まだまだだなぁ~。
愛されてることを知らない人(2019・9・12)
愛されてることを知らないで生きている人は、いつもイライラしていて、
いつも怒っていて、不機嫌で、愚痴っぽく、自分勝手な人が多いと聞いたことがあります。
「誰からも愛されてない」と思っていると、誰も信用できません。
愛を手に入れる方法も知らないので、人を強引なやり方で側に置こうとします。
それは時に権力で、力で、暴力によって、ウソをついて、
それらを使って愛を手に入れようとします。
けれども、どんなに権力を使っても、力を使っても、暴力で訴えても、お金を支払っても、それで愛されることはありません。「愛」は手に入りません。
おそらく、偽りの「愛」の中で生きるのでしょう。
神様は『悪を行う者は神を見たことがない者である。(第3ヨハネ1:11)』と仰ってます。
愛されてることを知らない人は、自分が自分勝手に作った愛を「愛」だと思い込み、
人を支配によって側に置くことで慕われていると装い、圧力によって従わせた人を見て人望があると錯覚し、自分が創り上げた世界で自惚れして生きていくんだろうと思います。偽りの中で。
愛を知らないで生きることはとっても辛いことです。
愛を信用しないで生きることは、ずっとひとりで生きているようなものです。
そんな生き方したくありません。
私たちは愛されてるんです。それはとても大きな「愛」なる方にです。
それをしっかり知らなければいけません。
信仰する力(2019・9・11)
「今日は疲れたな~」と思った日、
肉(体)は疲れていて動くのにしんどく感じても、私に宿る霊の部分は光を感じることができていれば満たされた気持ちを感じます。
「今日は何だか悲しいなぁ」と思った日、
思考全てがマイナスに傾いて、受け取るエネルギーも嫌なものばかりに感じてしまっても、私の中の聖霊様が私を内から光らせてくださっているのを感じることができれば安心します。
どんな状況や、状態、気持ちの中でも「生かされてるな~」と思いを持たせてもらい、それと同時に「ひとりではない」と思えたならば、安心と癒しを感じることが出来ます。
以前の私は、肉体的にしんどい日は、マイナスな気持ちがずっと続き、精神的に落ち込んでいる日は、ずっと落ち込み、前に進むことが出来ない自分を「愚か者」と思い、自分を責めることしかしませんでした。人のせいにもいっぱいしていた。
信仰する力は凄いです。
何も見えなくても、聞えなくても、触れなくても、しっかり感じられるものを与えてもらってる気がします。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見てない事実を確認する事である。
(へブル人への手紙11:1)
そして、その信仰心が神様のお喜びになることに繋がることだと知ると、私も神様に喜ばれている1人なんだと思え、またこちらも喜んでしまいます。
聖霊様の宿り(2019・9・10)
私たちが神様を信じ愛するようになると、神様は私たちの心に聖霊様と言う神様を宿してくださります。
内在神、内神様、大我、真我、分け御霊など宗教は違えど、聖霊様がおられることは同じのようです。
聖書によると、なぜ神様は私たちに聖霊様をよこされたのかがはっきり言われてます。
『ああ、話しておきたいことはまだまだたくさんあります。それなのに、今のあなたがたには理解できないことばかりです。しかし、真理である聖霊が来られます。その方の指導を受けて、あなたがたもいつかすべての真理を知るのです。(ヨハネ16:12-13)』
私たちが神様と繋がれるように、聖霊様を私たちに宿してくださったのです。
本来持っていたけれど、働かなくなっていた霊の働きをよみがえらせてくださったのです。
私はそう理解してます。
そしてそれは神様の真理を聖霊様を通して教えてくださるためです。
人は本来、霊的な存在なのですが、人々に『罪』と言うものが入ってから、人は霊の部分が死んでしまったと言われてます。
そしてその霊的な部分をよみがえらせるには、聖霊様の助けが必要です。
その聖霊様を宿すためには、神様を信じ愛することが必要なんです。
この『神様』とは、私たちをお造りになった神様です。
私たちが「この世に生まれて良かったー!」と思えるように、私たちをお造りになった方です。私たちを誰よりも愛してくださる方です。
「そんな事は信じられない」と神様を否定して、罪の中で生きることを神様は悲しんでおられます。
なぜなら、その人たちには神様の御言葉が届かないからです。
神様の祈りが届かないからです。
すべては神様の祈りを、愛を、受け入れるところから始まります。
神様の像③(ダビデ王の詩)(2019・9・9)
今日でダビデ王の詩は終わります。
詩編139:13-18)
それはあなたがわたしの内臓を造り、母の胎のうちでわたしを組み立てられたからです。わたしは感謝します。あなたはわたしに、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。わたしの魂は、それをよく知っています。わたしがひそかに造られ、地の深いところで仕組まれた時、わたしの骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児のわたしを見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。わたしのために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。わたしが目覚める時、わたしはなおも、あなたとともにいます。
神様は私たちを母親の胎内でお造りになったことが書かれてます。
そして私たちをお造りになったことを書物に書かれたとされてます。
それは神様にとって私たちが特別なものだから、大切に書物に残してくださってると言ってます。
神様は私たちをお造りになり、私たちがこの世に生まれてきてからもずっと人生を見守り続けてくださっています。それはどんなに果てに隠れてもずっとです。
そのことをダビデ王は詩に残してくださいました。
3000年前、ダビデ王が感じた神様の像が今の私たちにも受け継がれてるほど、神様の存在は不変なんだと思いました。
このあと詩編139章は24節まで続くのですが、19節から24節まではダビデ王の神様への思い、救いを詩にされてます。
神様を大切に崇め、祈り、救いを求める姿が神様には愛しく見えたのでしょう、ダビデ王は殺されることもなく、自分の子供ソロモンを王にして亡くなられました。
今でも芸術作品にダビデの像がありますね。
神様の像②(ダビデ王の詩)(2019・9・8)
昨日の続きで、ダビデ王の詠んだ神様をイメージしてる詩を紹介します。
詩編139:7-12
わたしはあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。わたしはあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、わたしが天に上っても、そこにあなたはおられ、わたしがよみに床をもうけても、そこにあなたはおられます。わたしが暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでもあなたの御手がわたしを導き、あなたの右の手がわたしを捕えます。たとい、わたしが「おお、闇よ。わたしを覆え。わたしの回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、闇も暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
神様はどこにでもおられることを話されてます。
『天に上がっても』と『よみに床をもうけても』とは、神様を信じる人とそうではない人が死後に行ける場所の違いです。「天国、よみの国どちらに行ったとしても」ってことです。ダビデ王は神様を信じる人でした。なので、『天に上がっても』の前に『たとい』とつけられてるんですね。その『たとい』は『よみに床をもうけても』にかかってるんだと思います。
『暁の翼』とは、太陽の昇る方向にある翼で、『海の果て』とは、太陽の沈む方向です。このことで、真逆の方向を対比させることによって『すべての方向』と言う意味を指してます。
私たち人間がいくら優れていても、夜の闇を操ることもできないけれど、神様はどこにいても神様の栄光の光によって、夜も光輝いていると言ってます。
ただ、今の世の中、夜も人間の力で昼のように明るく照らすことが出来るようになってます。神様の力を人は文明の力で手に入れようとしてます。
私たちにはとてもありがたく便利な世の中になっているのですが、神様のように振る舞ってきている人間に対して、神様は今どのように思われてるんでしょうね。
続きます(詩編139:13-18)