愛されてることを知らない人(2019・9・12)
愛されてることを知らないで生きている人は、いつもイライラしていて、
いつも怒っていて、不機嫌で、愚痴っぽく、自分勝手な人が多いと聞いたことがあります。
「誰からも愛されてない」と思っていると、誰も信用できません。
愛を手に入れる方法も知らないので、人を強引なやり方で側に置こうとします。
それは時に権力で、力で、暴力によって、ウソをついて、
それらを使って愛を手に入れようとします。
けれども、どんなに権力を使っても、力を使っても、暴力で訴えても、お金を支払っても、それで愛されることはありません。「愛」は手に入りません。
おそらく、偽りの「愛」の中で生きるのでしょう。
神様は『悪を行う者は神を見たことがない者である。(第3ヨハネ1:11)』と仰ってます。
愛されてることを知らない人は、自分が自分勝手に作った愛を「愛」だと思い込み、
人を支配によって側に置くことで慕われていると装い、圧力によって従わせた人を見て人望があると錯覚し、自分が創り上げた世界で自惚れして生きていくんだろうと思います。偽りの中で。
愛を知らないで生きることはとっても辛いことです。
愛を信用しないで生きることは、ずっとひとりで生きているようなものです。
そんな生き方したくありません。
私たちは愛されてるんです。それはとても大きな「愛」なる方にです。
それをしっかり知らなければいけません。
信仰する力(2019・9・11)
「今日は疲れたな~」と思った日、
肉(体)は疲れていて動くのにしんどく感じても、私に宿る霊の部分は光を感じることができていれば満たされた気持ちを感じます。
「今日は何だか悲しいなぁ」と思った日、
思考全てがマイナスに傾いて、受け取るエネルギーも嫌なものばかりに感じてしまっても、私の中の聖霊様が私を内から光らせてくださっているのを感じることができれば安心します。
どんな状況や、状態、気持ちの中でも「生かされてるな~」と思いを持たせてもらい、それと同時に「ひとりではない」と思えたならば、安心と癒しを感じることが出来ます。
以前の私は、肉体的にしんどい日は、マイナスな気持ちがずっと続き、精神的に落ち込んでいる日は、ずっと落ち込み、前に進むことが出来ない自分を「愚か者」と思い、自分を責めることしかしませんでした。人のせいにもいっぱいしていた。
信仰する力は凄いです。
何も見えなくても、聞えなくても、触れなくても、しっかり感じられるものを与えてもらってる気がします。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見てない事実を確認する事である。
(へブル人への手紙11:1)
そして、その信仰心が神様のお喜びになることに繋がることだと知ると、私も神様に喜ばれている1人なんだと思え、またこちらも喜んでしまいます。
聖霊様の宿り(2019・9・10)
私たちが神様を信じ愛するようになると、神様は私たちの心に聖霊様と言う神様を宿してくださります。
内在神、内神様、大我、真我、分け御霊など宗教は違えど、聖霊様がおられることは同じのようです。
聖書によると、なぜ神様は私たちに聖霊様をよこされたのかがはっきり言われてます。
『ああ、話しておきたいことはまだまだたくさんあります。それなのに、今のあなたがたには理解できないことばかりです。しかし、真理である聖霊が来られます。その方の指導を受けて、あなたがたもいつかすべての真理を知るのです。(ヨハネ16:12-13)』
私たちが神様と繋がれるように、聖霊様を私たちに宿してくださったのです。
本来持っていたけれど、働かなくなっていた霊の働きをよみがえらせてくださったのです。
私はそう理解してます。
そしてそれは神様の真理を聖霊様を通して教えてくださるためです。
人は本来、霊的な存在なのですが、人々に『罪』と言うものが入ってから、人は霊の部分が死んでしまったと言われてます。
そしてその霊的な部分をよみがえらせるには、聖霊様の助けが必要です。
その聖霊様を宿すためには、神様を信じ愛することが必要なんです。
この『神様』とは、私たちをお造りになった神様です。
私たちが「この世に生まれて良かったー!」と思えるように、私たちをお造りになった方です。私たちを誰よりも愛してくださる方です。
「そんな事は信じられない」と神様を否定して、罪の中で生きることを神様は悲しんでおられます。
なぜなら、その人たちには神様の御言葉が届かないからです。
神様の祈りが届かないからです。
すべては神様の祈りを、愛を、受け入れるところから始まります。
神様の像③(ダビデ王の詩)(2019・9・9)
今日でダビデ王の詩は終わります。
詩編139:13-18)
それはあなたがわたしの内臓を造り、母の胎のうちでわたしを組み立てられたからです。わたしは感謝します。あなたはわたしに、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。わたしの魂は、それをよく知っています。わたしがひそかに造られ、地の深いところで仕組まれた時、わたしの骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児のわたしを見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。わたしのために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。わたしが目覚める時、わたしはなおも、あなたとともにいます。
神様は私たちを母親の胎内でお造りになったことが書かれてます。
そして私たちをお造りになったことを書物に書かれたとされてます。
それは神様にとって私たちが特別なものだから、大切に書物に残してくださってると言ってます。
神様は私たちをお造りになり、私たちがこの世に生まれてきてからもずっと人生を見守り続けてくださっています。それはどんなに果てに隠れてもずっとです。
そのことをダビデ王は詩に残してくださいました。
3000年前、ダビデ王が感じた神様の像が今の私たちにも受け継がれてるほど、神様の存在は不変なんだと思いました。
このあと詩編139章は24節まで続くのですが、19節から24節まではダビデ王の神様への思い、救いを詩にされてます。
神様を大切に崇め、祈り、救いを求める姿が神様には愛しく見えたのでしょう、ダビデ王は殺されることもなく、自分の子供ソロモンを王にして亡くなられました。
今でも芸術作品にダビデの像がありますね。
神様の像②(ダビデ王の詩)(2019・9・8)
昨日の続きで、ダビデ王の詠んだ神様をイメージしてる詩を紹介します。
詩編139:7-12
わたしはあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。わたしはあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、わたしが天に上っても、そこにあなたはおられ、わたしがよみに床をもうけても、そこにあなたはおられます。わたしが暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでもあなたの御手がわたしを導き、あなたの右の手がわたしを捕えます。たとい、わたしが「おお、闇よ。わたしを覆え。わたしの回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、闇も暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
神様はどこにでもおられることを話されてます。
『天に上がっても』と『よみに床をもうけても』とは、神様を信じる人とそうではない人が死後に行ける場所の違いです。「天国、よみの国どちらに行ったとしても」ってことです。ダビデ王は神様を信じる人でした。なので、『天に上がっても』の前に『たとい』とつけられてるんですね。その『たとい』は『よみに床をもうけても』にかかってるんだと思います。
『暁の翼』とは、太陽の昇る方向にある翼で、『海の果て』とは、太陽の沈む方向です。このことで、真逆の方向を対比させることによって『すべての方向』と言う意味を指してます。
私たち人間がいくら優れていても、夜の闇を操ることもできないけれど、神様はどこにいても神様の栄光の光によって、夜も光輝いていると言ってます。
ただ、今の世の中、夜も人間の力で昼のように明るく照らすことが出来るようになってます。神様の力を人は文明の力で手に入れようとしてます。
私たちにはとてもありがたく便利な世の中になっているのですが、神様のように振る舞ってきている人間に対して、神様は今どのように思われてるんでしょうね。
続きます(詩編139:13-18)
神様の像①(ダビデ王の詩)(2019・9・7)
ダビデと言う王様をご存知ですか?
今から3000年ほど前の王様です。とても勇敢な王様で、預言者でもありました。
のちにソロモンという子を授かり、その子ソロモンがダビデの王国を継ぎました。
ダビデは芸術的なセンスもあって、神様の存在をとても大切にしていた彼はたくさんの詩を残してます。(旧約聖書の詩編というところです)
その中の詩で、神様をとても分かりやすく詠んでるものがあります。
それをお話したいと思います。
きっとぼんやりとしか分からなかった神様の像(イメージ)が分かってくると思います。
詩編139:1-6
主よ。あなたはわたしを探り、私を知っておられる。あなたこそはわたしの座るのも、立つのも知っておられ、わたしの思いを遠くから読み取られます。
あなたはわたしの歩みとわたしの伏すのを見守り、わたしの道をことごとく知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手をわたしの上に置かれました。
そのような知識はわたしにとってあまりにも不思議、あまりにも高く、及びもつきません。
私たちはぼんやりと「神様は見ている」と思っていたり、いるのかいないのか分からない、信じがたい思いの中で祈っていたりするかもしれません。
あるいは、困った時だけ「いる」と思い、普段は「どうでもいい」と思っているかもしれません。
けれど、神様は私たちが気づこうが気づかなくても、こんなにしっかり私たちを見守ってるんです。
これを「怖い」と思う人、「ありがたい」と思う人がおられると思います。
「怖い」と思う人はきっと神様から離れてる人だと思います。
私たちが人生を歩んでる姿も、気に病んで伏してる姿まで見守ってくださり、
私たちを囲って御手を置いてくださってるんですね。
私たちにいつも触れてくださってるんですね。
私はとても「ありがたい」と思います。
まだまだ続きます。(詩編139:7-12)
大空を眺めてみてください(2019・9・6)
「何だか今日は冴えないな~」とか、「一生懸命頑張ってるのに報われない」
「ああ、疲れたな~」とか、「何もやる気がでない」なんて思う時、
空を見上げてみてください。大きな大きな空を見上げてみてください。
この空はどなたのために造られたかご存知ですか?
あなたのためです。
神はまた言われた、「天の大空に光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、年のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ。」そのようになった。
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれを天の大空に置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光と闇とを分けさせられた。
神は見て良しとされた。(創世記1:14-18)
神様は4日目に空と太陽と月と星をお造りになりました。
それはこのあと生まれてくる私たちのためにです。
天と地の光をお造りになって、神様は「良し」とされたんです。
私たちにとって「良し」とされたんです。
ある伝道者の方が仰っていました。
「太陽より私たちの方が偉大なんです。太陽はただ熱いだけで、太陽自ら熱さを感じません。
宇宙より私たちの方が偉大なんです。宇宙はただ大きいだけです。大きな空間なだけです。なぜなら、太陽にも宇宙にも人格がないからです。
神様は私たち人間だけに人格、自由意思を授けてくださいました。
それは私たち人間だけが神様との交わりができるために造られたからです。」と仰っておりました。
もし、この大空が私たちのためにお造りくださったものならば、
もし、私たちが平安で喜びの中で生きるために必要だと思い造ってくださったなら、
大空を眺めながら、そんなことを思ってみてはいかがですか?